>>>メルンテーゼ
　>>>数日前——夕刻
　　>>>荷車の残骸とまだ新しい人骨のある山道
　　　>>>ヨハネ

　技をとれば、達人とはとても言い難い。
たとえば、《剣の世界》で少しのあいだ同行した、幼く未熟な剣士と比べても。
　膂力も、どうやらあるわけではない。
無力で貧しい不幸な女、という外見に相応しく、得物を振るうというよりは、その大斧に痩せぎすの体を振り回されていた。
　でも、立っていたのは彼女だ。
　肩で息をしながら。

　メルンテーゼの人々は貧窮にあえいでいる。
野垂れ死ぬ者もあれば、野盗に身を落とす者もある。
　この世界を知る者は、王の圧制が原因だという。
しかし不運な者が敗北するのはどの世界のどの時代も同じことだ。
　大斧によって引き裂かれ散らばったいくつかの肉塊は、
恐らくは食い詰めて賊となった農民の、恐らくはいち家族の、成れの果てだ。

　彼女は——ボロ布の彼女は、賊の襲撃を生き残った。数の差といくつかの体格の差をぎりぎりでかわして。
奇跡のように思われた。しかし彼女はそれをどうやら当然と受け止めている。
　奇跡をもたらすのは法か、そうでなければ意思だ。
法にしろ意思にしろ、彼女のそれは至極簡潔であろう。
そして簡潔なものほど、ものごとの上位にある。経験上そうだ。もちろん、例外の可能性を忘れてはならないが。
　対世界自閉法の弊害によって、私は各世界への直接干渉能力をほとんど失っていた。
　メルンテーゼの混乱に積極的に立ち会う為には連れ合いが必要だったし、彼女はそれに相応しい——かもしれない。

　山道脇の草むらに、ボウガン（のようなもの——私はこの世界の道具を知らない）を握った幼い娘がへたり込んで震えていた。
　ボロ布を着た女は、腕に刺さった矢を引き抜くと、荒く息をつきながら、大斧を引きずって少女にゆらゆら歩み寄る。
　少女の口が動く。ここからでは聞こえないが、「助けて」とか何とかだろう。
　対して私に背を向けている女の声は、ぼそりと、たぶん少女の懇願よりも小さな空気の揺れだったが、はっきりと聞き取れた。
「イヤだ」無機質な応答——私は笑ってしまった。いちいち律儀なことだ。
　斧が振り上げられた。

「待ちたまえッッ！」ここで後方５０メートルから、タイミングよく私が登場である。
「……ん？」女はその大斧を力任せに叩きつけたあと、腰をかがめたままこちらを振り向いた。
　ベストタイミングだと思ったのだが、遺憾ながら少女の救助は失敗に終わった。
　私は顔面に飛来した肉片を掴み、微妙に震えるそれを地面に叩き付ける。
良い音が鳴った。機材があればサンプリングをしたかったところだ。
　一面でそう思いつつも、私は少女に黙祷を捧げた。死を悼むのは得意だ。
何かを思いながら、あるいは感じながら、それに平行して死者に祈る事はふつう不可能だが、私には出来た。
　その祈りはメルンテーゼ時間では０秒に満たないが、実際には永遠なのだ。
私は常に喪服を着ている。喪に服すのは私のライフワークだった。それは誓いである。

「なんだ、キサマは」女は斧を支えにして立ち上がり、私を睨む。
彼女の殺気は、戦いを切り抜けたあとにも１ミリも弛緩せず、今は私に注がれていた。しかし私には野獣を手なづける心得がある。
「見咎めるとでも言う気か？」
「まさか。彼らは人食いだろう。そうじゃなくてもだが……君を責める気はないよ」
「なら、それこそ何の用だ」少女の死体から布を引きちぎると、斧の刃に付いた血糊を拭きはじめた。
　それはどう見ても準備行動だ。しかし私には野獣を手なづける心得がある。
「うんッ、まあ……その話は、どんな話もだが——怪我の手当てをしてからするべきじゃないかと思うねッ」
「良いからさっさと言えハゲ。だるいのは嫌いだ」
「まあ待ちたまえ——殺し合いの後で気が立つのもわかるがねッ。私はほら、丸腰だ。あとハゲてるわけじゃないよ」可能な限り優しく微笑みながら、手を広げてゆっくりと歩み寄る。
　“お腹は空いてないかね？”“きびだんご食べるかい？ほら。美味そうだろ”私には野獣を手なづける心得がある。
「……」女は未だ変わらず私を睨んでいる。しかし後一歩だ。気やすい冗談でもかましてやれば、彼女の敵意は解けるだろう。
「そう、手当てもだけれど、顔も拭いた方がいい——素顔の君がどんな魅力的な姿なのか気になるしねッ。それともコンプレックスがあって、顔を血で隠してるのかな？な訳ないか！ハ、ハ、ハ、……！？」
　視界の中で、女の姿が急速に大きくなっていく。大斧を平行に構え、私に駆け寄ってくるのである。
　彼女の眼の、ぎらぎらの意思の、『殺す』という言葉が、何重にもなってはっきりと聞こえる。
その意思で私の視界は満ちる。その意思を感覚が注視する。赤く揺らめく殺意だ。
　なるほどこれが彼女の法か。意思なき者や世界適応者には、無限の恐怖として感じられることだろう。
　それにしても私の交渉メソッドが通用しないとは。感受性の低さに少々呆れないでもないが、それ故の興味もある。

　やはり良い。
　彼女に決めた。
「愛すべき同志よ！」腕を限界まで広げて彼女を待つ。「飛び込んできたまえッ！抱きとめてあげようッッッ！！」

　そして私は、左肩から胸部にかけて、極めて深刻な衝撃を受けた。