■サクロの屋敷にて：出立の準備中

「さぁさ。そういうわけだから」
　泰然と手を叩き、異界へ旅立つ準備を促す白い子供を見やる。
　百日紅。
　読みはあるが、サルの名が定着したのは、はて何がどうなったのだったか。
　呼び名は大事だ。
　人格を支え、人生を左右しかねないものだ。
　他者にどうあってほしいと思われているかを端的に表すものだ。
　隙あらば私に歯向かってくるのも、きっとそんな呼び名のせいだろう。
　頻度が高め気がしなくもないが、隙だらけか否かについて考えることは避けておく。

「あまり時間の余裕はなさそうですね。詳細は道中に伺うとしましょう」
　落ち着いた声音で応えたのスーツ姿の西洋人。
　ユーグ。
　目の色はもう穏やかさを取り戻している。
　取り繕っている、だけかもしれないが。
　実際のところ、あの『穴の形状を拡張する』異能は、工事現場の方が向いてるんじゃないかなと思う私がいる。
　が、スーツ以外の衣装を持っていなさそうなので、言い出せないでもいる。
　…逆にヘルメットが似合いそうだな。現場監督みたいな。
　つまらないことでヘソを曲げられても面倒なので、我慢する常である。
　これでも、発言は選んでいるのだが。
　なかなか理解してもらえないのはなぜだろう。

「ツグミ、行こう」
　そう声をかけられたのは、ユーグの斜め後ろにひっそりと佇んでいた少年。
　少年と称するには、あまりに儚い感があるように思う、ユーグの存在感の影に潜んでいるせいだろうか。
　二人の間柄については、…よくわからない。
　揶揄してはならぬと控える気持ちがなくはないのだが。
　それにしては甘さが感じられない、違和感が拭えないでいる。
　ともあれ、屋敷の外内問わず二人が手を繋いでいることに、口を挟まないでいるのが不文律となる程度には、目に馴染んだ光景だ。
　ツグミ自身に問題があるでなし、問題の責を負わねばならないほどの個別の行動を取るわけでなし。
　懐に小鳥を飼うことの是非を問い質すようなことはしない程度に、私は寛容である。
　思うことは、小鳥といえば、古来より鳴きやとちょっかいかけられる生き物だという歴史的事情をもう少し汲んでほしいくらいなもので。

「…なんであいつ、サルには敬語やねん」
　連れ立って部屋を出る二人を眺めてぼやく。
「目が悪ないからとちゃう？　あんまり頬っぺた膨らましてると、饅頭つめるで」
「ぺ、ぺっ！」
　扇子の盾に、擬音の抗議を吐き出す。
　ちなみに、音だけである。さすがに。
「ふてくされてんと、ほれ、さっさと準備。着の身で行く言うなら止めんけど、面倒見やんで」
「あぁ、いや。その前にやな。サル。ちと、手ェ貸して」
「なんで着替えの準備までしたらなあかんの」
「ちゃうわい。ユーグが暴れてきたとこに人やって。何かしでかしそうなら対処してきてくれへんかな」
「なんで僕とこで」
「うちの子らで片つけて、どっかでユーグにバレたら面倒くさい」
「…貸し、十と三つな」
「ごっつ！？　普通、そういうんは一つずつ数えるんちゃうんか、なぁー！！」
　頭に手を置いてぐいぐい揺らして、抜群の安定性を確認する。
　座布団ごと引っくり返せば、起き上がり小法師にでもなりそうな。

「やめぇて。にしても、変なとこ、心配性やねぇ…」
「私がおらん間に、焼き討ちでもされちゃ敵わんからな」
「いつの時代の話やの」
「私が生きた時代の話やけども、3回目を聞くかね」
「何べんも嫌やわ、辛気臭い」
　しっしっと空気ごと追い払われる。

　心配の種は、恨みの種。
　一つである内に怖いことはない。
　芽吹きはしまいか様子を見る必要はあれど、必要があれば摘み取ればよいまでで。
　二つ、三つとなると、事情が変わる。
　葉は生い茂り、根が絡む。
　互いに縁のなかったはずの敵が固きで結ばれる。
　ひっそりと芽吹いたそれらが、徒花ならぬ仇の花を咲かせた挙句。
　血飛沫花が咲き乱れる様は、何度夢に見たところで、腹の中が煮えくり返る。
　どんなにしぶとくても、一度しか殺せないのは、ずっこいと思う。

「ほな、貸しはともかくとして、頼んだで」
「はいはい。面倒起こされる前に、口挟めばええやろに」
「本能まではどうしようもない。それに、あないに言われるような輩は、きっと私も嫌いや」
「止める気あらへんやん…」
　溜息を零している小さな頭をぽむぽむ叩けば、閉じた扇子で手首を突かれる。
　痛い。
「他に何ぞあったかな。サル、どうせ連絡つくようにしとるんやろ。そんならエエか」
「何もかんも投げっぱなしやし…」
「準備に忙しいんやもーん。…あ。おやつ代はいくらまで出る？」
「もういっぺん、足出た帳簿の数字を読み上げよか？」
「けちー！　サル子のけちー！」

　仕方がないので、台所から煮干をかっぱらっていくことにする。
「…うむ。これは、これで」
　ぽりぽり。うまい。


■メルンテーゼ、とある市場にて

「ホンマ、タツキのやつ…」
　異界へと渡る手段は、実のところ、知るものにとっては、少なくない。
　信用の置ける、という条件を付加することで、その数が限られてしまうだけで。
　花屋敷有する竜姫の異能について、安全性、安定性は何度も世話になった私が保証しよう。
　個人的恨みが、あくまでも個人への恨みであることも今回で保証されたと言えよう。
　つまりのところ、案の定、一人だけ別地点に落とされた。
「とりあえず、人のおるとこ向かわんとしゃーないなー…」

　一人ぼっちで放り出された悲しみも何のその。
　足の向くまま、気の向くまま、賑やかな市場を歩く。
　私の狩場といえば、もう少し薄暗がりの、縮こまって三角座りでいることしか許されないような裏通りであろうが、世界が置かれている状況を把握するためにも、表の社会を楽しむことも悪くない。
　活気ある人々の胸の内に耳を済ませる。
　家庭内の話。赤い花の話。恋人との話。王の話。隣人の話。城の話。
　雑多なそれらから、見えてくるものについて考えつつ、ゆらゆらと歩き続けた。
　ここには、恵まれた生活があって、そして、恵まれぬがゆえの乱がある。

　人々はどの程度に追い詰められているものだろうか？などと考えていると、破壊音が飛び込んできた。
　我に返り、傾げていた首を真っ直ぐに伸ばし、それだけでは足りず、踵を浮かせて、その様子を伺う。
　陶器屋だろうか。
　おそらくは、店前でおろおろしている娘が、店員らしき男を激怒させるような何かが起こった。
　彼らの足元に砕けて散ったと思われるきらきらとした破片が、大いに考えるヒントになるだろう。
　距離のおかげで精細に会話を聞き取ることはできないが、さほど想像から外れていることもなさそうだ。
「…やぁ、あれはマズイな」
　思わず口をついた不安の言葉とは裏腹な、笑みが浮かんでしまう。
　鼻歌だけは我慢して、そちらへと足を踏み出した。

　弁償として、体で払え。
　とまであからさまなことは言わずとも、ツノを寄越せの何のと娘の頭部に遠慮なく手を伸ばすのは大変に行儀がよろしくない。
　通りがかりの周囲の人間が、騒ぎに対して驚きと怪訝、関与しないという意思表示の無表情を見せる。
　そんな中、近い距離で剣呑な表情で騒ぎの娘を見ている、同じ年頃らしい娘は関係者なのだろう。
　見目の特徴が違う、姉妹ではない、友人だろうか。
「…下種が」
　友人と見た娘から刺々しく飛び出したのはそんな言葉と、短剣が一本。
　状況を変えるには、今しかないだろう。

「なぁ、兄ちゃん。それ、私が買ォたるわ」
　ほれ。と差し出された紙面が何かと見る、私の顔を見る、額面を見る、私の顔を見る、差し出した手が確かにあることを見直して、やはり私の顔を見る。
　…あと何往復かさせたら、首がもげそうだな、などと思う。
「い、いや、しかしですね、このように、この娘が割ってしまって…」
「何や。金のない先客が優先かいな？　私は、それを買いたいと言うとるんやけどな」
　おろおろと涙目でいた娘は、唐突な横入りに対応しきれないのか、硬直している。
　短剣なんて握っていませんでしたよ？と涼しい面の友人が、さりがなくその傍へと移動していた。
　…この機とばかりに、逃げるつもりじゃなかろうな？
「どないする？兄ちゃん。私は、いつまでこの姿勢でおればエエかな？」
　ひらひらと『500万』を揺らして見せる。
「…お買い上げ、ありがとうございます」
　信じられないを通り越して、不気味なものでも見るかのような顔。
　こちらは客だというのに、失敬な。
「ほな、包んでくれるかな？」
「は？」
「商品を、包んでくれるかな？」
「…い、嫌がらせか…？」
「阿呆を抜かせ。誰が嫌がらせに大金はたくねん。エエからはよ包めや、暇ちゃうねんぞ。…あぁ、そうそう。同じ、皿…これ、皿か？　あるかいな？」
「に、似たものなら。お買いになるなら、そちらを」
「いらん。参考までに重さ量りたいだけやさかい。定価で買う言うとるんやから、一つの欠片も、余しなや？」
　マジか…と零された呻き声は聞こえない振り。
　下種の行いの報いとしては、断然、安いものだろう。
　安すぎるか？と内心で問うものの、商品をダメにされたこと自体は同情すべき、減免されるべき事情であるはずだ。
　来訪して早々、禍根を振り撒く必要はないだろう。

「さて、本題と参ろうか」
　地べたを這い蹲る店員をよそに、振り返る。
　騒ぎの原因であろう、目を丸くした娘と。
　呆れか警戒かを露に、目を細めている娘と。
　屋台で買ってきたものか、甘味を頬張った娘がいた。
「…一匹、増えた？」
「むぐ、ん。誰が一匹よ！」
「しかも自覚しとる」
「この人、何！？」
「た、助けてくれた人です！」「変な人です」
　きらきらとした言葉の死角から何かが刺さった気がせんでもない。
「変な人なのね！　それじゃ、ほっといてさっさと行こう？」
「待て待て待て待て。そっち採用しなさんな。やのォて。茶くらい奢ったるさかい、ちょい待て、話くらい聞いてってや。な？」
「いい人…！？」「キャッチセールスか」「ナンパだーーー」
　…アカン、この多数決はアカン。
　あんまりに不利すぎる。

　さて、はて。どのように？
　興味を引いて。敵意を溶かして。歓心を買って。不安を除いて。
　歩み寄り、忍び寄り、寄り添い、寄り合うものか。
　いざ、人形の本気本質本能本領を発揮と参ろうか。

→ものの勢いで三人娘を引っ掛けた！
　みたいな。


■メルンテーゼ、花屋敷の奥座敷にて

「サクロの。遅かったやんか」
「なんでや、迷子になったにしては早かったやろう。ついでに、ほれ。釣果、もといお客さんや。茶でも出したって」
　ひょい、と身体を傾ければ、後ろに控えた三人娘が目に入っただろう。
　ものの見事に、温和で柔和な笑顔を形作るサルのあからさまな外面と内面の隔たりがとっとと暴かれればよいのにと、私は常々思っている。
「おや、挨拶が遅れてしまったね。お疲れではないかな、これがどう言ってお連れしたのか、失礼がなければよいのだけど。奥で冷たいお茶とお菓子でも振る舞おうね」

　そんなニコニコが、「500万を弁償してもらって」の一言で一瞬の無表情を見せたのは、少しばかり痛快だったかもしれない。
　痛い思いをするのは、私なわけだが。
　必要経費なのに。
「余所見せんの、他に隠し持っとる帳面あらへんやろね」
「どうせ、あほやもん。おもいだせへんもん。しらんもん」
「不貞腐れても可愛いないから、ちゃっちゃと、出しや」
「ぷい。」
　べし。と閉じた扇子が額を突く。
　痛い。

　そんな、私の心身（と懐）の痛みを代償に、異界での生活が始まったのだった。

　　　　　　片翼の女性が青髪の女性を引きずって行った。
　　　　　　……悲鳴が聞こえる。

　　　　　　…戻ってきた。