放鳥された伝書鳩がフェニール自治領に到着したのは、数日後であった。
　庭園に設けられた屋外プールで水練を嗜んでいたファースティアは、報せを受けプールサイドへと上がる。
　執事のセバスチャンから受け取ったガウンを肩にかけ、長髪を後ろに掻き分けると水滴が宙に舞った。
　腰に届く程度の長さとはいえ、水を吸うとそれなりに鬱陶しいものだ。

「お父様かしら？ それとも、お兄様からかしら？」

　白い指をテーブルに伸ばし、置かれた筒から中身の伝書を取り出す。
　書き殴った文字は酷く乱雑であったが、筆跡から長兄であるレミールが記したものである事は直ぐに分かった。
　何事もまめな長兄がこのような手紙を書くなど、それだけでただ事ではない。
　電報という手段を使わず、原始的な連絡手段をとった事からも、それが悪い予兆である事は想像できた。


『親愛なる我が妹ファースティアへ——。

　時間が惜しいから、用件だけを記載する。
　新王の乱心と不当は止まる事を知らないらしい。陳情虚しく、父上が新王に幽閉された。
　魔の手は私にはまだ届いていないが、時間の問題だろう。
　自治領区は今、西方の都市同盟間の冷戦状態にあり、軍の武装蜂起は困難な状態にあるのは知っての通りだ。
　真意の見当はそちらに任せるとして、恐らく、新王の目的は時間稼ぎの類だ。
　エンブリオ収集という強硬策は、何かが成立すれば細かい問題は打ち消せるだけの切札らしい。
　私は手勢を率いて、父上の救出を試みるが……勝算はそう高いとは言えない。
　同時に王城に隠された新王の切札がなんであるかも探ってみるつもりだ。
　続報を送れるようであれば、何らかの手段で報告は試みるが、期待はしないでくれ。

　ここからが本旨だ。父上と私が囚われ、その生命を交渉材料にされたとしても——
　辺境領姫として恥じない選択をしてくれ。
　君は賢い子だし、親族やセルシオーネの重鎮が助けてくれるはずだ。
　このような時の為に屋敷には食客の方々を匿ってもいる。
　例の場所に私と父上にもしもの時があった場合の行動計画書は残してある。
　自治領区と領民、そして、この世界に対して最善の選択をして欲しい。

　それから、別の連絡手段で同盟友好都市リオ・アーベント市の友人に助力を願っておいた。
　彼とは古い友人で留学先の士官学校の同期で、ファースティも子供の頃に逢った事のある彼だ。
　彼が客員提督として力を貸してくれるのならば、西方の冷戦問題は心配ない。
　海軍の運用に関しては、彼を私と思ってくれていい。

　この手紙が届く頃には既に決着は着いている事だろうが——
　救出作戦の成功を祈っていてくれ。
　私も君や下柘植の姉妹たちやセナ・フィールとまたお茶会を楽しみたいからね。

　たとえ、私が剣に斃れる事があっても敵討ちなんて考えてはいけない。
　それでは辺境領姫として失格だ。ファースティ、君の意志で、討つべき相手を見定めて欲しい。
　これが最期の連絡となるかもしれないが、君に良い風が吹かんことを——。

　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　海軍郷レミール・グラン・ラフェニール』


　悪い予感は現実をそのままに侵蝕していた。
　仕立ての良い紙が握られた拳に皺を刻みながら、音を立てる。

「……なんて事でしょう……ああっ、お父様……レミお兄様……！」

　立ち眩みがするのは、初夏の日差しのせいではない。
　国家火急の事態だ。直ぐに親族とセレソン（西方都市同盟麾下の名士）を招集し会議を開かねばならない。
　議会への根回しも必要であるし、新王への抗議文も手交せねばならない。
　派兵は不可能としても軍の動員準備も進める必要がありそうだった。
　既に周辺諸国では、既に大規模な一揆が反乱軍を形成し王国本国は内乱状態にある。
　反乱勢力に援助や工作員を送り込むことはそう難しい事ではない。
　国家元首たる領主に海軍郷（海軍省大臣）が不当に幽閉され、遺憾の意だけで終わらせる事はできない。
　幸いにして新王の評判は最低なのに対して、領主と海軍郷の人望は揺るぎない。
　民意を掴むことは容易であるし、むしろ、過激化した世論を抑える方に骨を焼かされるかもしれないくらいだ。

「セバスチャン、すぐに親族一同、首脳部に非常召集の連絡を！ お母様には私から事を伝えます」

　気の弱い母にこのような理不尽を伝えれば卒倒しかねないが——
　それも娘の務めだ。隠し通すことができる筈もない。
　召集の指示を飛ばしたところで、自分が水着にガウンの姿であった事を思い出す。
　流石にこの恰好では国家会議に出席する訳にもいかなかった。

「女給長、湯浴みと着替えの準備を！ それから、下柘植の皆さんとセナ・フィールを食堂に呼び集めて！」

　先ずは、民間人に偽装可能な密偵の第一陣を情報が揃い次第、送り出す。
　こういう時は広い邸宅の敷地を横断するのも億劫だ。
　白いガウンを空に投げ捨て、屋敷の中へ早足で向かう。


　こうして、辺境領姫ファースティア・エイダ・ラフェニールの長い戦いが幕を開けたのだった。