メルンテーゼにやって来たのは、10歳のときであった。無数の花の咲き乱れる美しい世界の中で生まれ育ってきた好奇心旺盛な彼女にとって、「ネクター」に興味を持つのは、必然だったのかもしれない。
人々に奇跡を与える深紅の花———いくつもの世界を渡り歩いてきたその世界唯一の若き旅人はそう語った。その世界に存在する生命体に花を捧げれば、神秘的な力を手に入れられると。人々はへえと目を丸くして聞いていたが、この世界から出たいというものはいなかった。いくら珍しい花があるからといって、これほどまでに美しい自然に囲まれた世界はどこにも存在しない、住民たちはそう信じて疑わなかった。
日光を好む花が眠りにつき、月明かりの下で虫が歌いだした。琥珀色の髪と瞳を持つひとりの少女が旅人に近づいてくる。
「外の世界には、魔法の花があるの?」
上目使いでそう尋ねる。彼女の右腕に抱えている色あせた分厚い本の方に目をやる。どうやら物語集のようだ。
「花が大好きな妖精がいるって本当?」
その物語集の裏表紙には、はるか昔の旅人の名があった。メープルと名乗るその少女の話によると、本の中にはメルンテーゼを舞台とした短編の物語が記されているらしい。作中に登場する「魔法の花」「妖精」とは、ネクターとエンブリオに違いない。風景や街並み、文化の描写などは、メルンテーゼそのものである。
旅人の話に、メープルは目を爛々と輝かせて聞いていた。その様子を見て、旅人は自分と同じだな、と思った。自分の住んでいる世界が嫌いなわけではない。他の人と同じように、これほどまでに美しい世界はないと考えている。しかし、世界の外に出たいと思っている。それはきっと、外の世界に存在する「美しいもの」「醜いもの」をこの身で体感したいという好奇心であろう。
旅人は、メープルにメルンテーゼへの行き方を教えた。巨大樹の地下深くに、緑と紫の蔦に隠された扉がある。それを探し出し、扉を開け、星明りに照らされた道を東に進むのだ。ひたすら東へ進んでいくと、妖精の光に包まれた大きな扉がある。そこを開けると異世界メルンテーゼだ。道のりは長く感じるかもしれないが、あふれ出る好奇心に身を任せればたどり着けるであろう。帰りは、行きと真逆を行けばいい。
この世界の人口は1000人ほどだ。(“人”口と言っても、住人は獣の身体の一部をもつ亜人であるが。)住民はみな世界の中心にそびえ立つ巨大樹の中で一緒に生活している。
メープルは外の世界に飛び出そうと決めたとき、父親・母親と、住人のトップである一族の長に話した。この世界の人は生き方に寛容だ。誰も引き留めはしなかった。
「そうか、気のすむまで体験して来なさい。気がすんだときは、帰ってきなさい。ただし、危ないことには首を突っ込まないように。」
許可を得た翌日には巨大樹の地下と、その先にある異世界に向かって出発する。同じ空間で生活しているだけあって、噂は一晩で住民全体に広まっていた。様々な声をかけられるが、興奮で彼女の大きな耳には入ってこない。
通貨も文化も違う世界に旅立つのに持ち物などいらなかった。食糧は、まあ何とかなるだろう。扉を探し、躊躇することなく開ける。