＜とある森の中で＞


「はぁ、はぁ、はぁ……」

　夜の森の中を一人の少女が駆ける。その背中には純白の翼。
それを染め上げるのは蒼白の月光ではなく、燃え盛る炎の紅。

　乾いた空気が喉にまとわりつき、その奥底までを焼いていく。
いつもなら愛しいはずの森の広さが今は恨めしかった。

　エンブリオの少女テレジアは、自分の中に
生まれそうになった良からぬ心を必死で抑えて走り続ける。

「……ぅぐっ」

　走り付かれた脚から伝わるのは鈍い痛み。
そして異の奥から込み上げる嘔吐感はもうどうにもならない。
あとどれだけ走れるだろうか、あとどれだけ逃げられるだろうか。

　気付けば、一緒に逃げて来た筈の友人の姿も無い。
私はどうしてこの手を離してしまったのだろうという
呵責と後悔が足首を掴み、少女はその重みを背負って尚、進む。

　突如訪れた災いは、テレジアに涙を流す暇すら与えない。



＊　＊　＊　＊　＊　＊　＊　＊



　分割世界の一つ、【元素の世界、メルンテーゼ】。
ここではたった一人の【王】の下、エンブリオと
他の生命の全てが手を取り合い生き、そして繁栄してきた。

　しかし過日、唯一無二の【王】が交代した事でこの世界の理は一変する。
　
　新王が打ち出したのは、独占と支配。
頂に立つ者のみが世界の恩恵を得られるように。
それ以外の全ての者はその為の糧となるように。
驚きと反発の中、新王と臣下はそれを推し進めた。

　テレジアたちの住む街は幸いにして王城から離れた森に有った為、
新王の軍勢の声は聞こえども、そしてそれに脅えても、
実際の足音だけは彼女達の日常からはまだまだ遠かった、はずだった。

　しかし突如として彼女達のそれは災禍に見舞われる。
穏やかな安らぎの夜を染める炎と共に、街に溢れた奇怪な白骨の怪物の群れ。
そしてその先頭に立つ不気味な笑みを浮かべる三つの恐ろしい影……。
今まで誰も見た事の無かったそれに街の人々は恐怖し、
新王への怒りと悲しみを口にしたが、テレジアを
はじめ何人かはこれは王の仕業ではないと感じていた。

　新王が行おうとしているのは独占と支配……
だが、彼女達を襲ったのは、侵略と簒奪、だったからだ。



＊　＊　＊　＊　＊　＊　＊　＊





　テレジアの背中を不愉快な言葉が突き刺す。
ちらりと振り返れば、骨だけの獣と人の姿が数体見えた。

「ひっ……」

　もう走る早さも上がらないけれど、それでも止まらない、止まれない。
あと少しすれば小川沿いの大きな街道へと出る筈だ、そうすれば……。

「あ」

　そこで、テレジアは気付く、気付いてしまった。
それで、この後どうすれば良いのだろう、と。
頼るべき【王】は、この世界には、もう……。

「ああ……」

　小さな膝が、折れる。そして背後に迫る薄汚れた白の化物。
絶望と諦観が、とうとう少女の首を掴もうとしたその時に。

　
「穿ちなさい！ユーダリル！」


　凛とした叫びと共に、一条の光が底深い夜闇と血の様な炎の赤を切り裂いた。
そして聞こえる、背後の悪意が砕け散る音。
目を上げれば、そこには月を背に立つ三つの影——。

　その中央に立つ金糸の髪を持つ女性が、力強く優しく微笑み翼の少女に手を差し伸べる。
テレジアはそれを迷い無く掴んで、そしてその暖かさにようやっと涙が、零れた。