"風鳴りの丘"。
メルンテーゼの北東に位置するこの丘の周辺は、なだらかな丘陵地帯として知られている。
元々は小さな村が幾つかあるだけの場所だったのだが、ここ数十年間で大きく拓かれ、今ではメルンテーゼでも１、２を争う葡萄の産地として有名になった。


この土地が、そのように発達を遂げた理由は、２つある。


まず１つ目は、葡萄。
この風鳴りの丘の葡萄は大変質が良い。芳醇な香りと果実実に定評のあるこの葡萄から作出された葡萄酒は、昔から様々な世界の人々を魅了してやまなかった。
惜しむらくは、葡萄酒作成に従事する村の数が少なく、市場に出回る機会が大変に少なかったことだろうか。
それを惜しんだ"前国王"は、即位して早々、この土地に人の手を入れることを大々的に宣言したのだ。
国の保護下の元、人を入れ、土地のエンブリオ達を更に活性化させることで、質の良いワインの作出と流通、それと、他世界から流入してくる人々の為の生活の場の提供を目論んだのだ。
はたして、その政策は成功し、今では、この地域の葡萄酒を知らない人はいないまでになった。
今では新規参入者を招き入れる事はしていないが、人々を受け入れた"風鳴りの丘"は、今でも多くの者に、その実りと恩恵を約束してくれている。


理由の２つ目は、平穏な土地柄である。
これだけ豊かな土地柄であるにも関わらず、人に害を為す動物達の姿を殆ど見かけないのだ。
古くからある村の識者たちは、揃って
「昔は、狼の集落が、丘の上の方にあったんだけどねえ」
と証言するが、今では、彼らの遠吠えを聞く者はあっても、その姿を目視する者は一人として居ない。
その為、時折聞こえる遠吠えすらも、丘に生える木々が風に鳴る音がそう聞こえただけであるとの見識が、一般的だ。
——外敵が居ない。
"前国王"が、この土地を、他世界から流入してくる人々の為の生活基盤として選んだ理由の１つも、そこにあったと言われている。





そろそろ日が昇ろうかという時分になろうとしている。
青一色に染まる彼誰時の"風鳴りの丘"の風景の中に、帰るのを忘れた夜の色がひとつ、ふたつと動いていた。
もし、それを見る者がいるならば、それが狼の姿を取っていることに気がついただろう。

元々、"風鳴りの丘"周辺に住まう人々の朝は早い。
太陽と共に起きだして、葡萄の世話をし、日暮れと共に眠るからだ。
しかし、それよりも早く起き出す者はそうそういない。
もし居るとするならば、暗い場所から明るい場所に移動する性質を利用して、羊達を放牧場所に誘導する羊飼い達くらいだろう。
現に今も、１０匹程度の羊達が、丘の頂上を目指して歩いていた。
ただ、１つ変わっている所があるとするならば、その羊達は、狼２頭の追い立て……もとい、先導によって、目的地を目指している所だろうか。

「この辺もめっきり住みにくくなったねェ」
羊達を先導し終えた、一匹の老狼が、深いため息をついた。
彼の目下には、なだらかに広がる丘の稜線と、そこに広がる葡萄畑が映っている。
葡萄畑は、人々の生活がそこに根付いている証左。それはそのまま、狼である自身の生活範囲の減少を表していた。
最初は、人にまぎれる為に始めた羊飼いではあったが、今では、自身の食い扶持を稼ぐ為に続けている——
そこまで考えて、首を振って、自身の考えを打ち消した。

——元から、住みにくくはあったか。

色々な土地を彷徨って辿りつき、"風鳴りの丘"の外敵を排除して、多くの同胞が死んで。
捕食対象だと思っていた"ニンゲン"が、実はそうではなくて。
やっと人にまぎれて生活する術を身に付けた、と思ったら、どんどん生活範囲を浸食されている。
その上、羊達の育成に必要な"ネクター"は、"新国王"が独占するという。
しかも、それによって起こった暴動で、食いぶちの羊達の殆どは逃げてしまった。
自身が呼べば、逃げた羊は恐らく戻っては来るだろう。
だが……。
愛しい孫娘だけは、何とか護りたいものだが、自分もそう長くはない。
自分が居なくなった後の孫娘の為に、今自分ができる事は——。

「じぃじ、またなんか面倒臭い事考えてるでしょ」
「め、面倒な事とはまた酷いことを」

孫娘に言われて顔を上げる老狼の目に、朝日に照らされる丘と羊たち、それと、しんがりを務めていた孫娘の姿が映る。
既に狼の姿を解き、人を模した姿を取る孫娘は、たまに羊を追い立てつつ、あきれた様な表情を浮かべて祖父を見ていた。

「だってほら、そろそろ人が起き出す時間なのに、狼のまんまだし。
　いっつも口を酸っぱくして、"正体がバレちゃいかん"って言ってるのに」

まあそれは分かるけどね、と、少女は笑う。
少女と老狼は、人狼と呼ばれる種であった。
人にまぎれ、羊を喰らい、静かに暮らしていたが、正体が露見した両親は人間に殺されている。
個々の力は人狼の方が上でも、まとまった人間の力には及ばない。
それは、身にしみて分かっているのだろう。その笑みはどこかひきつったものだ。

「ほらほら、ぼーっとしてないで。
　放牧終わってもまだまだ羊探したりしないといけないんだからね？」

促されて、老狼は老人の姿へと変化する。数瞬後、そこには、紛うことなき羊飼いの老人の姿がそこにあった。
孫娘に促されるまで人間に変化することを忘れていた老人は、照れ隠しに１つ、咳払いをして、孫娘へと向き直った。

「ごほん、その事なんじゃがな」
「ん、何？」

屈託ない少女の笑み。
愛おしげにそれを眺めて、老人は口を開いた。

「羊探しは、リュコ、お前一人でやるがよい」

　やたら大きい狼が、じっと羊を見つめている……

羊たちはとてもうれしそうだ！