にげろ
にげろ　にげろ　にげろ

男は、がむしゃらに走った。
疲労で熱を帯びた脚が激しく痛んだ。
喉がやけつき、肺が破裂寸前まで膨らんだ。
だが背後に迫る恐怖が、男を前へ前へ押しあげた。
ぬかるみに脚をとられても、姿勢を正す余裕すらなかった。
夜闇の平原を文字通り転がるように走った。

背後から響く落雷めいた咆哮。
震える空気が男の全身を叩き、心臓が凍てついた。
ぬるりと鼻につく血なまぐさい臭い。
ヤツだ。ヤツがすぐ後ろいる。

なぜだ　なぜオレがこんなめに
話がちかう　なにかのまちがいだ

楽な仕事のはずだった。
赤き花を密林する農村。
その花の没収と村人の粛清。
花が見つかればよし。
見つからなくとも問題はない。
金品を漁り、女子供を犯す楽しみがある。
我らは国家を守護する王国軍。
誰も文句など言おうはずがない。

今日の村はアタリだった。
黒髪の美しい女を一目で気に入った。
嬲り犯そうと、仲間の３人で女を囲んだ。
そのとき、黒い風がふいた。
目の前の仲間が血を吐き、ごとりと首が落ちた。
もう一度、黒い風がふいた。
隣りの仲間の腹が裂け、臓物が吹き出した。
襲われていることに、ようやく気がついた。

駆けつけた狙撃兵が、銃弾を叩き込んだ。
黒い影はとまらなかった。
魔導兵たちが力の限り魔力を叩き込んだ。
黒い影はとまらなかった。
重騎兵がたちはだかり、力の限りおさえこんだ。
黒い影はとまらなかった。
ひとり、またひとりと仲間の首が飛んでいく。
ひとり、またひとりと仲間の死体が増えていく。
部隊長の生首が、ごろりと男の足元に転がった。
物言わぬ虚ろが瞳と目があった。
男は豚のように悲鳴をあげた。

なんだあれは　なんなのだあれは
あの黒い影は　あの青い瞳はなんなのだ
なぜ我らを畏れない　なぜ我らが恐怖する

黒い影には翼があった。
竜。そう、あれはたしかに飛龍だった。
静かに燃えたぎるマグマのように赤黒い身体。
その背には、大鉈を振るう人間が一人。
全身から発する深い憎悪と静かな怒り。
青く燃える瞳が、男の心臓を凍りつかせた。
死神。
死をもたらす悪魔。

「いやだぁ！死にたくない！」
男は力の限り夜空に叫んだ。
背後から声が響いた。
地獄のように低く静かな声だった。
「貴様の罪が、オレを呼んだ」
黒い風が男のわきを吹き抜けた。
冷たい鈍色の閃光が走る。
「正義執行」

・
・
・

地平線から登る太陽が、平原を黄金にそめた。
名も無き花のかたわら、男の生首が虚ろな瞳で空を見上げていた。
閉じゆく視界の中で、闇色の飛龍が地平線の彼方へ飛んでいった。


[第一話　完]