『何不自由の無い暮らし、という物を体験したことはあるだろうか。
　衣食足りながら礼節に拘らず、不安なき財と不足なき遊楽を得る。
　木漏れ日の悪戯目覚め、星の誘いを得て眠る。　そんな暮らしを。

人間が望みうる限りの楽園。天国の描写。あるいは、文明の到達点。
それらは汎用性のある至福であるが、にも拘らず何故か否定的な評価で迎えられがちだ。

ある覚者は言った。　それは堕落であると。
ある識者は言った。　それは冒涜であると。
ある学者に至っては、その段階に到達すれば人類は滅びる、とさえ言い切った。

……果たして本当にそうなのだろうか。
それらは嫉妬の果てに生み出した、希望的観測ではないのだろうか。
数多の批判に晒される中で、しかし人類は其処まで簡単な存在ではない　と、そう信仰している者達も、確かに存在するのだ。


そして見えざる壁に隔てられたある分割世界が、その信仰を現実のものとする。
神秘と魔法に溢れた、名付けられざる生命の世界。
多くの民が暮らしながら数多の自然を残し、命の全てが存在の喜びを享受する世界。
一揆に沸いているメルンテーゼとは対照的に蛮行とは程遠く、相応の対価あれど暴力への招きに応じるとは考えにくい土地柄だ。
まぁ、それもそうだ。家に引きこもり、裏の森で山菜と果物でも採っていれば、生きていることに不自由はしないのだから。
しかし、安全と安寧をかなぐり捨てて、招きに応じた者がいる。
一人二人ではない。その世界からの参戦者は、今や少なからぬ戦力として一揆衆に組み入れられている。
理由は単純だ。 たとえヒトから義務と渇望を奪っても、興味と好奇が残っているということ。
平素な言葉なら「趣味」や「娯楽」、「愉悦」なんかと置き換えてもいいだろう。
事情や目的は様々だろうが——そういう感情が、彼らを突き動かしたのだ。

コレはひとつの証明だ。
たとえこの世の贅を極めても、人は新たな目標を自らの手で作り出す。
艱難辛苦をものともしないその強い意思を前に、過剰投与が何の制約になるというのだろうか。



旅の最中に小耳に挟んだことだが。
飽食の時代。消費の時代。娯楽過剰の時代——ある分割世界は、そんな悩みを抱えているという。
満たされるが故の無気力などと称して、満たされることすら否定しているという。
　ならば見給え。 それを超えた悦を貪った者たちの生き様を。
　　見習いたまえ。　苦行者にも等しい道に、自ら踏み出すその様を。

ただ生きる事以外の目標を見失い、途方に暮れた時。わずかなりとも、指標になるかもしれないぞ。
　そして安心するんだ、人生は思ったよりも手応えのある苦難に満ちている　と———』

　
　

日記のような書物にペンを走らせ、モルト・スフォルツァートは呟いた。
趣味ですらなく、鍛錬で書き連ねる自伝みたいなもの。　音楽の才はあれど作詞や言語の能力に乏しい彼女は、行く先々の言葉で奔放に文章を作成し、練習にしているわけだ。
メルンテーゼ語で書かれた恥ずかしポエムは本を閉じて再び開くと白紙に変わり、特殊な方法でしか読み直せない魔法の日記帳に封印される。　彼女の出身世界は生命の世界であるとともに、こうした技術の発達した技巧の世界でもある。　誰も彼もが趣味で何らかの技術を極めるうちに、強大な文明を有してしまったわけだ。　それぞれが勝手に発展するため、汎用性や生産性は皆無だが。

と嘆いてはみるものの、実のところ彼女にとって事情はそんなに関係ない。
上記の通り彼女を突き動かすのは趣味であり愉悦。
動乱に伴う可能性と生命力の爆発。　其処にモチーフを求め、そしてその結晶を素材に求める。
ある意味では王以上の搾取者と言えよう。

同様の動機を持つ者を集ってみるのも一興か　と。
真摯な気持ちがないだけに、その発想は自由だ。暫しの思考の後、彼女が出した回答については——　次回を待つことにしよう。

モルトは心地よさそうに鼻歌を歌っている。