少年は、古びた教会の前に立っていた。
この村の人々が待ちわびた短い夏、その夜分のこと。
人々は疲れ果てて束の間の休息を取っている時間である。

「……よし。」

少し心を落ち着かせてから、教会の戸を開いた。
まず中央に掲げられている英雄オリフェンドールの像が目に入る。

中心を開けるようにして机などは片づけられ、
朱で描かれた魔法陣の真ん中に黒い棺、
その周りにはネクターの花弁がふりまかれていた。
魔法陣の外にあたる、祭壇の横に3人の大人がこちらを向いている。

「ミハイル、決心はついたかね？」

頬のこけた長身の男が尋ねる。

「はい。卿の仰る通り、僕がやるべきだと決意しました。」
「……よろしい。」

男は鷹揚に頷く。少しづつ少年に向けて歩みだした。

「聞きたまえ。この村は途方もなく貧しい。
　我々は何の罪も犯してはいないのに、
　この作物も育たず金脈もない無産の地で生きていかねばならない。
　これは我々が背負わねばならぬ宿命なのであろうか？……否！
　当然、我々にも幸福を追求する権利がある！」
「仰る通りです。僕らの生きる権利を否定できる者など、誰もいない。」

ミハイルと呼ばれた少年は、力強く答える。

「この村は自生するネクターを収穫することで、生計を立ててきました。
　そのネクターを全て貴族の直轄にするだなんて……。
　領主でもない奴がネクターの産地を接収して、
　今まで働いていた農民まで財産扱い。
　移動の自由も結婚の自由もなく、気に入らない者は適当な罪で鞭打刑。
　……こんなの、絶対おかしい！」
「いかにも。だから我々は、新しい秩序を作らなければならないのだよ。
　貧しかった者が等しく食べていける、平等の社会。
　腐った権力者どもを追い落とし、貯めていた富を分配する。
　そのための革命が、全国で今まさに始まろうとしているのだ。」

そう言って男は、懐から羊皮紙を取り出して広げてみせた。
中には名前らしき文字がびっしりと書かれてある。

「見たまえ！今やこれだけの者が革命に賛同しているのだ。
　反体制側には、すでに公助の組織が出来つつあると聞く。
　これが神の助けと言わずして何というのだね？」
「まさしく、英雄オリフェンドールの導きでしょうな。」

男の後ろに控えていた、初老の男が口を開く。
小太りで簡素な法衣をまとう、この教会の神父である。

「我々は古来より英雄と共にあった。
　エンブリオの導きで召喚された『干渉者』が、
　どれだけ我らを救ってきたことか。
　国難の今だからこそ、かの者の力を借りる必要があるのです。」
「しかし……その『干渉者』は、我らと歩んでくれるでしょうか？」
「問題はない。その左手に刻まれるであろう刻印は、
　万が一『干渉者』が暴走した場合、契約を打ち切るためのもの。
　勿論こちらは攻撃手段を失う事になるが、命あってのものですから。」

先ほどまで神父の隣で口を閉ざしていた女性が、前に出た。

「ミハイル。
　貴方はこんな大変な事を貴方に託す私達を卑怯だと思うかもしれない。
　でも恥を忍んであえて言うわ。私達に、力を貸して欲しいの。」
「夫人……。分かっていますよ、皆さん大人だからそれぞれの立場がある。
　僕は家出してきた身ですから、『召喚者』として適任だと考えたのです。
　皆さんは違う方法で、この村を解放してください。」

ミハイルは少し口角を上げた。
緊張で顔の筋肉が強張っていたが、それでも肯定の意志は伝えたかった。

「召喚の儀式は、満月が南天の最上部に入ってから始める。
　それまでは、君の大事な人と共に過ごしなさい。」
「……はい。」

神父の了解を得て、ミハイルは一旦教会を離れる事にした。
この村で残された時間は、あとわずかだった。

◇◇

教会の裏には小さな森がある。
ミハイルは森の中腹に生えている一本杉の前で、待ち人を恋う。

月の角度が変わろうかという頃、反対側から物音が聞こえた。
黄金色の長い髪の少女が、こちらに近寄る。

「ごめんなさいミハイル、
　パパの監視から逃れるのに時間がかかってしまったの。」
「大丈夫だよイネッサ。こっちこそ無理言ってごめん。」

小さく頭を下げた後、イネッサという少女はミハイルとの距離をつめる。

「今日なのね、『干渉者』と契約する日は。」

ミハイルは黙ったまま頷いた。

「私、信じてる。ミハイルが世の中を変えてくれるって。
　貧しい人達からお金を搾り取るパパも、
　村のネクターを全て奪い取ったあの貴族も、
　それを知っていながら何もしない国王も、みんなおかしいわ！」

イネッサは奥歯をぎりりと噛む。今にも瞳からは涙が零れそうだ。

「ミハイル？聞いてるの！？」
「ごめん。……なんかもう、契約の事で緊張しちゃって。」
「私だって寂しくない訳じゃないのよ？
　でもみんなの為だもの。だったら私、我慢できるわ。」

少女に睨まれて少年は苦笑する。
表情の硬い少年の両頬を彼女の手が覆った。

「誰も分かってくれなくても、私だけは、
　ミハイルの全てを受け止めてあげられる。
　心配しないでいいのよ？ずっと待ってるから。」

そのまま自分の方に引き寄せる。
二人の唇が繋がってから、どれだけの時が経っただろうか。
今度は自分が顔を引いて、イネッサは言った。

「だからお願い……この村を救って。」

じっと自分を見つめる少女の身体を少年は力一杯抱き寄せた。

◇◇

ミハイルが再び教会に戻ってきたのは、
ほぼ月が真上に上がってきた頃だった。
待ちかねたとばかりに、神父が近寄ってくる。

「丁度いい時間だ、ミハエル。今から儀式を始めようと思う。
　これだけのネクターがあったら『無貌の蒼頭』も現れるでしょう。」
「神父、一つ質問が。
　僕が契約するのは『干渉者』ですよね？
　前々から疑問だったのですが、
　その『無貌の蒼頭』というエンブリオとどんな関係があるのですか？」

ずっと分からないままだった。
呼び出すのは『無貌の蒼頭』という名のエンブリオだという。
しかし、召喚して契約するのは『干渉者』。
数日前に聞いたこの神父の説明が、まだ頭の中で腑に落ちないままなのだ。

「ふむ……ではこの際、整理しておきましょう。
　我らが召喚する『干渉者』というのは、
　異界の地より来る英雄、すなわち我らと同じ人間。
　このメルンテーゼに来るためには、
　我らの世界のエンブリオを仲介せねばならないというわけです。
　『無貌の蒼頭』なくしては、『干渉者』と契約するのは不可能。
　昔からやってきたことです。」

『干渉者』と契約するために
『無貌の蒼頭』というエンブリオを中継しなければならない。
世界を跨ぐわけだから、間接契約は必要だろう。

——だが本当は、どちらと契約しているのだろうか？

ミハイルの思考の中に疑問符が渦巻き始めた頃、
今までリーダー格で動いてきた頬のこけた男があからさまに両手を打った。

「我らの目標は『干渉者』と契約すること。それに相違はない。
　月が完全に落ちないうちに、儀式を終わらせなければならん。」

そうだ、今は迷っている場合ではない。
立派に『干渉者』と契約し、革命に一石を投じなければ。
ミハイルは意識を目の前に集中させる。

「魔法陣の準備も整ったようだ、詠唱はちゃんと覚えて来ただろうね？」
「はい。」

——ついにこの時が来た。

ミハイルは緊張で震える手を意識で抑えながら、
聖水とネクターの香り水で両腕を清め、
左手に掴めるだけネクターの花弁を掴む。
そのまま魔法陣の前まで行き、左拳を月光に掲げた。


地上におわす我らが聖霊よ
我らは願う　御名を紡ぐことを
その力において　楽園を来たらせ給え
かの地の剣になるごとく　我らに英雄を与え給え


空気が揺らぐ。月光に包まれ、風となり、上に噴き上がる。
下に巻かれたネクターの花弁が光る。


我ら生きる希望を与え給え
我らに罪を犯す者を我らが許すごとく
我らの罪をも許し給え


左拳が輝く。空気の音と声が共鳴する。


国と力と栄とは　限りなく汝のものなればなり
我らが試みにあおうとも　我らと共にあらんことを


宣言が終わった時、魔法陣の中央に風が集まった。
そのまま、朧が人型らしきものを形成する。
ミハイルは目を見開いたまま、震える唇を懸命に動かした。

「汝に問う。汝の名は『無貌の蒼頭』なりや——？」

オオオオオオオオオオオオオ……

人型の咆哮が聞こえる。ミハイルは間違いないと、確信した。
人型は暫く咆えた後、中央に据えられた棺の中に吸い込まれていった。

「成功したのか！？」

少年の後ろで儀式を見ていた男は、思わず大声を上げた。
視界にある棺は一片とも動かない。

皆が注視している中、ほんの少し棺の蓋が動いた。
誰もが確認する勇気を持てないまま、時間だけが過ぎる。

そして、月の角度が変わろうとする頃。
ゆっくりと、滑らかに棺の蓋が外れていく。
中から人が立ち上がった。


「……とりあえず、ここが何処であるか聞きたいんだけど？」


目下現れた英雄は、複雑な服を着た女だった。



To Be Continued......