「ムルタ」
　舌の上を滑らせるように名前を呼んでみると隣りの青年が、若干げんなりした顔でこちらを見てきた。
　「なんだい」
　「…ム・ル・タ」
　返答はすれども、名を呼ぼうとしない相手の反応を無視するように再度言葉を区切ってじっと見つめて見る。
意に介した風もなく、前方を行く少女—私のいた世界で言うところの華僑系と言うのかしら—に「おーい、どっちに行くんだい？」と声を掛けるのを見て、思わず思い切り蹴りを叩き込んだ。

ガッとなかなか良い音がしてムルタが前方につんのめりそうになるのを見届けた後、「そっちにはなにがあるのかしら」と言いながら同様に少女へと声を掛ける。
返って来た返答に「なら、そっちに行きましょう」と頷いて、くるりと振り返る。

すっ転びはしなかったようだけれど、こちらを怨めしそうに見てくるムルタに「名を呼ばれたなら名を呼び返しなさい」と尊大とも言えることを言って微笑んで見せた。

　「あなたは私の"ワトスン"なのだからね、ムルタ。お分かり？」
　「わかろうもんか！　キミのいた世界で言うその"ワトスン"というのは、こんな理不尽な目に遭うものなのかい」

　問いかけにはさあ、と答えてドレスの裾を翻す。少なくとも暴力的なやりとりはなかったと思う。…いや、そうでもなかったかしら。

　「そうね、ただ私の知っている"ワトスン"は好きな人が出来ていざ結婚しようとしたところ、盛大かつ地味な嫌がらせは受けてたわね」
　「…………大変なんだな」
　「ええそりゃあそうよ、すべてを見通す目を持つ探偵の助手なのですもの。
第一そうでなければ、助手である必要性もないはずだもの。
それでも現場にくっついてくるのが助手だし、探偵が唯一崩されない牙城を突き崩すことが出来る唯一の相手よ」

滔々と語ってからにっこりと微笑んでみせる。
言い方はだいぶ砂糖菓子を与えるようなものだったが、はてさて。

　「…なるほど、僕もそのワトスンだと？」

ほら引っかかった。

　「ええ、そうね。絶対たる知的探究心の具現化たる探偵を、本当に唯一「どうとでも出来る」存在よ。素敵でしょう？」
　「……ふうん、それはなんだか気分がいいね。…トゥーリ」

そこでようやっと名前を呼ぶ様子に「よく言えました」と微笑んで、少女が前方で呼んでいるのに今行くわと声を返す。
少しニコニコして機嫌が良さそうなムルタを流し目で見て、肩をすくめて笑って見せた。

　「（もっとも、その結婚の邪魔をするのは探偵なんだけれどね）」

…言ったらとても怒りそうなので、この情報は開示する予定はない。