ライニアルの入っている小屋の門限が来てしまったので、名残惜しくもその場を後にして僕は帰路に着いた。
夜風が気持ち良い。

弦を奏でる音がした。
いつもの雑音だ。
良い風のふく夜には必ず聴こえてくる。

ライニアルといられる時間は限られていて、文句を言おうものなら執行人に女団長を呼ばれてしまう。
先ほどまでもあの袋被り野郎と喧嘩をしていたところだ。
そもそも何が執行人なのだ。袋を被って図体だけでかい木偶の坊じゃないか。臭いし。

奏でられている音と声は苛立ちの前では耳障りだった。
一度文句でも言ってやろうとずかずかと草むらに入り彼を見つけた瞬間に、罵倒の言葉は空中に浮かんで消えてしまった。

長い尻尾がある。
楽器を持つ手は獣だ。
大きな帽子を被っている。
が、その帽子からは獣らしき耳が出ている。
大きな靴が傍にある。素足を出している。
長い脚のその先は獣だ。
微かに横顔が見える。
獣だ。
黒い痣がある。
獣だけれど———

音が止んだ。
彼がこちらを見る。
と、目が合った頃には彼の肌は人になり、帽子の中身は髪の毛になった。
長い尻尾はゆらりと揺れ、立ち上がる彼がおじぎをする際に一緒に大きく上下した。
「こんばんは。良い夜ですね」

誰に言っているのか、とうろたえた僕を彼はにこやかに見ていた。
当然だ。ここには僕しかいない。
「こ、こんばんは」
声が裏返った。恥ずかしい。

「今夜は星がきれいですから」
上を見上げ、
「彼らと一緒にと、思っていたのです」
歌うように彼は喋った。

「彼ら？」
「僕たちがいた場所、彼らが行った場所、僕たちが行く場所、彼らがいる場所。
今現在君と僕がいるところが、ここだとしましょう」
弦を一本弾く。
「彼らがいるところが、ここだとしましょう」
その隣の弦を一本弾く。
「僕たちも彼らもみんなみんな、隣同士にいる」
三本の弦を一つずつ弾いていく。
「だから僕はこうやって」
それは音楽になった。
「みんなと一緒にいようと思うのです」
思わず聴き入った。

この音楽に僕は、うるさいだとか、人が感情過多になっているときにそういうのは耳障りだとかそんな言葉を投げつけようとしていたのか。
とたんに申し訳なくなり、その場に座り彼を見上げた。
「！」
手を止め、彼は隣に座った。
「ひっ」
近い。変な声が出た。
「君が座るのなら僕も座りましょう」
「あ、いや、それなら僕は立つとする」
立ち上がると彼も同時に立ち上がる。
無言で座りなおす。彼も座った。
立ちなおす。彼も立ちなおした。

空白。

「ところで、なんという名前ですか？　いつも綺麗な毛並の方と一緒にいらっしゃいますね。
僕はまだ見習いですので舞台袖から見ているだけでしたが———貴方たちの演舞はとても好きです。」
彼が微笑んだ。

ああ、そうか。近くで彼を見た時から感じていた違和感の正体。
彼は笑っているようで、笑っていない。
微笑み続けながらも悲しい顔をしている。
もしかしたら僕が獣と一緒にいるからこそ感情の機微に気が付いたのかもしれない。
彼の瞳は『何もかもを愛しながらも何もかもをどうとも思っていない』ような色をしていた。

「僕はリーフォン。すまないが君付けで呼んで貰えると助かる。
その、こんななりをしているが、僕は性別で区切りをつけられるのが苦手でな。」

空白。

あれ、と彼を見た。
彼のその瞳が僕にはわからない感情を映している。

「リーフォン君。これからどうぞよしなに。
あの綺麗なお方は何という名前でしょう？」

相方を褒められて嬉しくないはずがない。
「ライニアルさんっていうんだ」
弾んだ声で返す。

「リーフォン君とライニアルさんですか。ふふ。覚えました。
僕の名は」




目が覚めた。


いつも通り天井は夜空だ。
ライニアルは毎晩そうしてくれるように僕に寄り添い眠っている。

「二つ在る星を一つの名で呼ぶんですよ」

あれから幾度も逢瀬をし話をした。
そこで聞いた話だ。
なんという名前だっただろう。
名を覚えるのは苦手だ。

二つで一緒の星があるのならば、僕はライニアルと二人でひとつの星になろう。

「……何処にいるのだろう」

独り言は自分にも、彼にも、まだ思い出せないたくさんの人達にも、いまここで一緒にいる仲間にも向けられた。

僕たちは何処にいるのだろう。
目を閉じた。
弦を弾く彼の手を思い出す。

朝が来るまであとどれくらいだろうか。
彼の手がぼんやり滲んでいく。
夢の中ではみんなに会える。
だから消えていかないで欲しかった。

僕たちもみんなにもここにいる人達にも消えていかないように。
瞼の裏にはまだ星の光が残っている。
少しでもあなたに会えてよかった。
朝が来たら、また頑張ろう。