ビブリオバベルは、己の力不足に苦悩していた。





彼女は、もともと、
大きなコンプレックスを抱いていた。
アカデミエという生きるだけのことに関しては
何の苦労も苦痛も伴わない世界で、
これまでの19年の人生をぬくぬくと生きてきたことに。

彼女にとって、生きていることは当たり前のことで、
それ自体が何らかの困難や代償を伴うものであると知ったのは、
物心ついてからしばらく経ってからのことだった。

衣食住は対価なしに配給される。
知識を求めれば好きなだけ与えられる。
ありとあらゆる学術書が手に取れる。
知的好奇心を満たすこと以外は全て思考停止してよい世界。

この恵まれた世界に入界申請を出している学者は、
様々な分割世界に、星の数ほどいる。
だが、それが受理されるのはほんの一握り。
学術的成果が認められなければ、立ち入ることすら許されない。

彼女は、偶々そこに生まれたというただそれだけのことで、
その世界に滞在していることを許されていた。
成人するまでの２０年だけという、猶予付きではあったが。





彼女は“知識として”外の世界のことを知った。

美しい峰々に降り積もる白雪のことを。
水平線と大空の、青と蒼が引く境界線のことを。
生命の枯れ果てた一面の荒野のことを。
鬱蒼と生い茂る熱帯の密林のことを。
文化という名の魂が宿った町並みのことを。

肉眼で直接ではなく、
それは写真として、映像として、
時には書物として、ビブリオバベルの知識となった。

彼女は憧れた。外の世界に。
いつかこの世界を飛び出し、あらゆる分割世界を旅したいと。
知識として得たそれを、己の血肉として実感したいと。


それが夢なのだ、と、アカデミエ出身の同士に話したことがある。


「やめとけ」


そして一蹴された。
話を聞きながら神経質そうに眼鏡を磨いている彼は、名をヴィラードと言う。
ビブリオバベルの３つ歳上で、すでに成人済み。
彼は呪学の研究で実績を得て、この世界の滞在継続を許された。

「知らねェのか？こんど統計学のトリトンに聞いとけ。
　アカデミエ出身者がこの世界の外に出るとな、
　ろくでもない目にあっておっ死ぬのがオチだ。
　死んだってのが分かるのはまだいい方だな、
　大概は行方知らずになっておしまい」

「どうしてですか？」

拭き終わった眼鏡をかけて、
彼はビブリオバベルを睨みつける様に見つめる。

「“やせい”が足りねェから」

「……野生？」

「生き残るための勘と言い換えてもいい。
　健康を維持できるだけの最低限の栄養を毎日提供されて、
　労働を強いられず、本のページを捲ってりゃ暇が潰せる。
　こんな培養槽で生きてるとな。家畜と変わんねェのよ」

「ただただ、退化していくんだ。
　不要な能力が淘汰され、整理され、最適化されてく」

「退化……」

「そう、退化。
　誤解すんなよ、退化は何が何でも悪ってわけじゃねェ。
　少なくともアカデミエで生きる以上、高い運動能力は不要だ。
　危機意識、反射神経、筋力、魔力、観察力、抵抗力。
　そういう“無駄”が削ぎ落とされていく。
　最後に残るのはちょっとした計算能力と知識だ。
　はい、木偶一丁出来上がり」


物取りに襲われる。
諍いに巻き込まれる。
人攫いに拐かされる。
人身売買される。
心身を病む。


「オレが知ってる限りでも十件以上はあるぞ、行方不明報告。
　実際にはもっとあるだろうしな。
　メルンテーゼ調査しに行った海洋学者イアンズロップス……
　あの親子も連絡が途絶えて何年立つか分かんねェ。
　砂漠化の研究でアクアザリアに向かった環境学者エルカスター……
　去年ようやく見つかったとよ。
　銃痕がいくつもある穴あきミイラになってな」

「アカデミエは界民意識ゼロの世界だ。
　外の世界でアカデミエ民に何が起ころうと誰も知ったこっちゃない。
　そもそも、情けのつもりか何か知らねえが、
　出身者が成人まで居ていいっつー制度も、
　却って平和ボケした哀れな夢見る家畜を量産するひでェシステムだよ。
　生まれたらすぐ別の世界に追い出すほうが、まだなんぼか人道的ってもんだろーが」

「ビブ公、お前はよ」

毎日三食自分が何を食うか自分で計画して考えたことがあるか？
その食事を調達する手段が思い浮かぶか？

ヴィラードの問いに、
ビブリオバベルは答えられなかった。







メルンテーゼ民の言葉を反芻する。

「鉱石だけではないさ。兵糧、武器、その元となる資材、
　様々なものを消費する。それは戦をする以上仕方のない事だ。
　ただ、王が代わりネクターのなくなったこの世界は
　段々痩せてきている。以前の様に資材の採れない所もある。
　そんな中、異世界から来た精鋭皆にそれを分け与えるというのは
　メルンテーゼにとって大きな痛手なのだ。
　生半可な気持ちで来た者に資源を浪費されては敵わん。」

その忠告は的を得ていて、
ビブリオバベルの心に深く突き刺さる。

「……ありがとう？
　迷惑だから帰れって言ったつもりだったんだけど。
　君ってなんていうか、心が強いよね……」

……いや、分かっていた。
頭では、分かっていたはずだ、そうなるであろうことは。
一揆に参加する前に重ねたローラスとの議論で、話題にあがったこと。
現地民からも、他世界から戦いに来た精鋭からも、
誰からも疎まれる存在となりうること。
それを糾弾される覚悟も、持っているつもりだった。


努力や誠意が報われないのではない。
成果を出さなければそれは努力と言えないし、誠意でもないのだ。
ただの自己満足。正当化するための言い訳。
わかっている。
自分の欲求を満たすためだけの行為であると自覚し、
それを叱責される覚悟もある。

そう、思っていた。
実際の戦いに参加し、己の力不足を痛感し、
痛みに耐えながらも鍛錬を重ねているのに、
「お前は必要ない」という適切な評価を突き付けられる。

知識や理論ではなく実感としての体験は、
かくも痛みを伴うものであるとは、
ビブリオバベルも、知らないことだった。




残されたカードは二つ。

己の力不足は解消しないと諦め、メルンテーゼを出ること。

己の力不足を解消するために、尽力すること。


ビブリオバベルは、苦悩の末に後者のカードを選ぶことにする。


前者のカードを切るにはまだ早すぎる、そう思ったからだ。
それを切ってしまうことは、即ち投了を意味する。
冷静な判断とか、的確な評価とか、
そういうことを差し引いたとしても、敗北宣言であることは確かで。

そうやって冷静な判断をこの先も重ねていった時、
おそらく、自分にはもはや何も残らない。
何の価値もなく、行く世界の宛もなく、彷徨うだけの存在になる。
本当に自分にできることを、私はまだやり尽くしていない。
努力し尽くしてそれでもダメなら諦めるしかないが、
まだ、その段階には達していない！限界には達していない！
涙で滲む視界を振り払って、ビブリオバベルは己に言い聞かせる。
例えエゴだと罵られたっていい。メルンテーゼの為ではないと吐き捨てられてもいい。
これは戦いだ、自分自身に向けた蜂起なのだ。
自分がここで自分を諦めたら、一体誰が自分を救ってくれるというのだ。




力もなく、魔力も弱い自分にできることは何か。
クリシュナの用いる、傷を塞ぐ聖水を見て一つ思い浮かんだ。

攻撃手として期待ができないのであれば、
せめて、彼等の負担を少しでも軽くしたい。
彼等の痛みを取り去りたいと、そう願って、
悩みを打ち明けた、ただ一人の相手、
羽毛まみれの天使は、何も語らず静かに頷いた。




ビブリオバベルは、エンジェルと契約した。
　

恐怖を抑えるようなビブリオバベルにたいし、フライバイは顔全体で笑い
ファーストコンタクトのさわがしさそのままになれなれしく向かってくる。

声をかけられた方に振り向き、問いかけを鼻で笑う

相手の様子に何事かと見ていると、魔鉱物と聞かれて少し驚いた顔をする。

首から下げた、鈍く黄金に光る丸い飾板を手に取る。
それには太陽のモチーフと見られる彫刻が施されており、知識があればさほど純度の高くない金からできたものだと判断できるだろう。
持ち主とは異なり、どこか温かみを感じさせる作りをしていた。

グリゴリはふと気がついて、懐から小さなコインを取り出す。
　

取り出した古いコインは、両面の錆びた金属に異なる彫刻が施され、断面のみが青く輝いていた。
それからは強い魔力を感じたかもしれない。

彼女が驚いたことに吃驚したようで、ぬいぐるみの後ろに隠れた

ポプリが説明をしていると後ろからひょっこり顔を出した

ユージェニーは小さな子供のように外の世界の想像を楽しげに巡らせていたが、ふと表情が強ばった。

握手してくれるという教樹に夢愛の顔にぱあっと笑みが広がった。

差し出された枝を勢いよく両手で包み、強く振るように握手する。

ふと、自分が左目だけで見つめられていたことに気が付く。

気迫に押され、観念したようにおずおずとしっぽを差し出した。