5.


　何も難しい話ではない。
　簡要に言ってしまえば、ただひと言で済む話だ。

　よく勘違いされるが、わたしは別に、感情がなくなったわけではない。
　ただ表情や身ぶりとして表れることがなくなっただけ。
　そこに動機や意味はなく、はっきりとした自覚と確信があるのみだ。残念ながら、大切な何かを失ったとか、多くの死を遠望したことで壊れてしまったとか、そんな御涙頂戴の筋書きは例え目次から作者のあとがきまで見たところでどこにもありはしない。
　つまりは「いつの間に」というやつであり、これまでわたしが歩んだ道程すべてが理由とも言える。
　水滴が長い月日をかけて石を穿つように、半神半人になったわたしの心というやつもロウソクのように溶けていったのだと思う。
　ここでひとつ、はっきりさせておきたいことがある。
　それは、大抵の人は大きな失敗や救いがたい悲劇をその身に受けても、どうにかなってしまうことはない、ということだ。
　より正確に言うならば、「長続きしない」と表現すべきだろうか。
　例えば人死にをいつまでも嘆く者はまずいない。
　なぜか。
　それは人は嘆き続けることができないからだ。幸福は言うに及ばず、不幸も、他者への憎悪も、自身への反省も、昨日の涙も、今日の想いも、どこかで途切れて最初からなかったかのように消え去ってしまう。例外なんてありはしない。誰にでもある本質。
　難しい話ではない、ただひと言で言えばそれは、
　『飽きる』ということだ。
　わたしは飽きてしまった。喜び怒り哀しみ楽しむことに。
　一時期は狂ってみたこともある。やがてそれにも飽きた。
　誰にでも少なからずあることだと思う。
　自分自身に飽きる、ということは。
　そして、永遠に生き続けるわたしはその極致だ。わたしはもう、わたしではないという自覚が確かにある。
　なのに、誰もいない無人の世界で佇むわたしが、今なお何かを考え、思い、行動しているのは一体どういうわけか。
　見上げてもその高さすらわからない巨大な壁が、わたしの目の前に立ちふさがっている。
　わたしは壁を越えようとはせず、かといってその場から立ち去ろうともしない。ただいつまでもその壁を見上げているのだ。
　独り思う。
　壁の向こうに誰かがいる気がする。
　——答えには、まだ手が届きそうにない。

　　　＊

　遠くに穏やかな海が見える。
　ここはメルンテーゼなのか、それとも別の分割世界のひとつなのか。それすら判然としない。
　そもそも、一揆という武装蜂起の最中だというのに、なぜこんな安穏な場所にいるのか。
　そう、もとを正せば「サマーバケーション」なるチラシを持ってきたポポロがすべての元凶であった。
　夏祭りがはじまろうとしていた。

　日差しが強いうえに暑い。つまりは夏だった。
　ようやく落ち始めた真昼の太陽が石畳を容赦なく照りつけ、置き去りにされた木材から陽炎が立ちのぼっている。うっとうしいほどのセミの鳴き声は四方から聞こえてきて、その合間を縫うように祭りの準備をする音が流れてくる。

　そんな炎天下の中、ピアは木立の中で涼むように佇んでいる。目をつむっていても感じる夏の眩しさのせいか、いつものも置物のような姿とは少しだけ違う。よく見るとときおり身体が揺り動いたり顔の向きが変わっていたりしていて、落ち着かない風だ。
　そして、腕を組み直したときだった。
　どこかから、何か大きな物が地面に落ちる音。
　ピアが閉じていた瞳をゆっくりと開くと、音がした方向にポポロがいるのが見えた。

　遠くて声は聞こえてこないが、何やら慌てた顔をしている。どうやら屋台の設営に使う角材を落としてしまったようだ。
　——力の使い方を知らないんだよな、あいつは。
　ピアは細い息を吐いて、足を一歩前に踏み出し——それ以上前には進めなかった。
　なぜなら、ピアよりも早く、ポポロに駆け寄った人物がいたからだ。
　白い狼の耳と尻尾を持った少女。見覚えがある。タンポポ荘の住人で、名前は——なんだったか。

　ポポロとその少女はそう多くない言葉を交わした後、角材を半分に分けて持ち運ぶことにしたようだ。二人はのろのろと歩き出し、やがてピアのいる場所からその姿は見えなくなった。
　ピアは無表情のまま、再び木の幹に背中を預け、降り注ぐ木漏れ日に目を細める。
　別に、ポポロが何をしようが不満はない。
　むしろこの状況は、余計なことに巻き込まれないで済むのだから、頭上に広がる青空程度には晴れやかのはずだ。
　何も変わらないし、何かが起こるわけでもない。
　一体いつまでそうするつもりなのか。夏空の下、ピアは身動きひとつせずに木陰に身を寄せ続ける。設営に関して素人だらけのタンポポ荘の住民たちは、屋台の準備に悪戦苦闘をしているようで、工事現場のような喧騒は間断なく続いている。釘を打つ音、金属同士がぶつかる音、数人がかりで屋根が組み立てられ、木材に色鮮やかな塗装が施される。
　けれども今のピアが感じているのは、すべてをねじ曲げてしまいそうな、嘘みたいに大きな太陽だけだ。


　いつの間にか、意識が途切れていた。
　目を開く。
　どうやらたいして時間は経っていないらしい。
　それを証拠に日は相変わらず高く、聞こえる騒ぎも何一つ変わっていない。
　ただ一つ、目と鼻の先に見知った顔があること以外は。

　頬を押して遠ざける。

　ポポロから視線を外して周囲を見ると、ここからでも見える屋台のうちのひとつに、たくさんのテーブルと椅子が並べられているのが見えた。夏祭りに参加する住人ほとんどがそこで昼食を取っているようだった。

　そのとき、ポポロを呼ぶ野太い声が聞こえてきた。おそらく住人の誰かだろう。ポポロが壁になって、ピアには気づいていないのかもしれない。

　有無も言わせない。言葉の上に言葉を重ねて、

　ピアは返事をしなかったし、ポポロも返事を待たなかった。
　くるりと踵を返し、声を上げて住人たちの方へと向かうポポロの後ろ姿をピアは無感動に眺める。顔を見なくてもわかる。その表情は笑顔に違いなく、それこそがポポロ・ダンドリオンが持ち得る唯一の表現だ。
　一度として見たことがない。ポポロが本気で怒ったり、悲しんだりするところを。
　人ではないということ。
　——そう、つぼみが開いた花が人間のマネをすれば、丁度ああいう風になるのだろう。
　だけど、
　合流したポポロは住人たちと一緒になって笑い、昼食の時を共にする。
　それは間違いなく、楽しい出来事だろう。

　だけど、ポポロは決して席につこうとはしない。

　ピアの顔がうつむいて、その表情が見えなくなる。
　余計なことに巻き込まれないのだから、頭上に広がる青空程度には晴れやかのはずだった。
　自分でも思わぬことが起こった。
　構え、腰を深く落とす。地を踏む力。上から下へ流れるそれは地面を通して反発力を生む。ただ歩くだけでも発生する、ごく当たり前の現象。その力を螺旋の勁力の中に巻き込んだ。すなわち下から上へ、上から横へ、横から外へ。発勁。
　掌打。
　瞬間、つい先ほどまで身を寄せていた樹木が「ブルブル」と揺れはじめた。細い枝は折れ、青葉が激しく舞い落ちる。まるで、そこだけに大きな地震が起きているかのようだ。
　やがて、大きな音と共に、樹木の幹にヒビが現れた。
　内側から破裂したように見えた。
　あれほど揺れていた木はいつの間にかひたと止まっており、葉がこすれる音すら聞こえてこない。
　風は止み、どこまでも暑い夏。ピアは残心することなく木々の奥へと歩き出し、夏が生み出す幻の中へと消え去ってしまう。
　人々の喧騒は、いつまでも聞こえてきた。

　自分は何を考え、何を思って八つ当たりなどしたのか。
　ピアは、自分のことが自分でもよくわからなかった。

　そんなこんなで、なし崩しにタンポポ荘への入居が決まり、住み始めたとある日の朝。

　クロエはポポロを見つけ、嬉しそうに朝の挨拶をする。

　クロエは興味津々といった感じで、そう尋ねた。

　まだ入居するとも言ってなかった筈なのに…等と思ったが、目の前で鍵が変形していくのを見ると、すぐに心を奪われる。

　渡された鍵に興味津々で、ポポロの好奇の視線には気付かなかった。

　翼を触られると、素っ頓狂な悲鳴を上げて、

　少しくすぐったそうに、翼をひょこひょこと動かしている。

ポポロ…恐らくそれが彼女の名前なのだと、青年はここで認識した。
ポポロの無垢なる様子に、青年は呆気に取られる。
追い払っているにも関わらず、ついには自分の目の前に座り込んでしまったのだから。

青年の目には、ポポロは世間知らずで箱入りのお嬢様か何かに見えた。
一体どんな温室で育てばここまで危機感のない娘に育つのだろうか。
人というモノを知る機会を与えられなかったのか、あるいは知るつもりが無いのか。
青年はポポロのその在り方に異常を感じはしたが、それは決して人間離れしたものではないとも思えたようだ。


青年は緩やかに薄れ往く意識を感じながら、ポポロに言葉を返す。

薄れゆく意識の所為か、ただ感じるままに青年は言葉を紡ぐ。
不思議な感覚だ。自分が今何を言っているのか、自分が何の立場でモノを言っているのか、よくわからない。
心を隠す仮面も、今は存在しない。


……どこか遠くの方で声が聞こえる。それは、木々の中よりかすかに響く。
空を覆い隠す深緑の森から、未だ遠くにいる血塗られた男を捜す声。

青年は、最初よりもずっと柔らかな声でポポロに語りかけた。

言葉の意味を推し量るエステル。
きっと家は大きいってことなんだろうなぁ、と思い至る。

(どうやら貴女の意見を参考にしたいようです—)

一応お金は持っているようだが…メルンテーゼでは意味がなかったようだ！

疑問があるようだ…

何かと勘違いしてるようだ！

疑問はこっちに向いたようだ！しかも勘違いしたままだ！

綿毛の鍵を受け取って、妖狐はにこりと笑う。

ポポロに「大歓迎です」と言われて、こちらも嬉しそうな笑顔を浮かべる。
それから家賃についての話を聞き、

ふと口を閉ざすと、ポポロを、どこか尊敬するような眼差しで見つめ。