《貴方の事は恨んではいない……でも、これからは別々の道をいく。生者と死者の行く道は異なるものだから》

　偽りとはいえ争いも知らぬ平和な世に生きていた少女——他ならぬ私が騙し欺き、散々な目に遭わせた彼女は、別れ際に親愛を示し凜と笑った。
　街で親しくしていた者達は皆人形だったという事実に嘆き、命を奪い奪われる事に何も出来ず怯えた少女。
　硝煙と腐敗ガスが立ちこめる絶望的な世界へ、安全な箱庭から旅立つという場面で笑顔を浮かべられるほど強くなった。その様をまるで別人のようだと、皮肉を飛ばしたのを覚えている。
　争いに巻き込んだ私を恨まないと彼女は言った。
　——だが、ささやかな復讐とばかり、目的も行き場も無い私を突き放した。
　彼女を守るために同じ道を行く——というのは当時考える限り最良の選択だった。だがそれでは《怪物》が解き放たれないから駄目だと、訳のわからぬ理論をもって彼女は一蹴した。
　戦う術も持たぬ少女が何を、と思ったが、その意志は固く、ついぞ覆す事は出来なかった。
　本当に束縛から放たれた《生きた娘》と《死んでいる怪物》は別の道をいかねばならぬ——同時刻、共に別の方角へと旅立つ。最後に約束したことだ。
　あの日、私は創造主への憎しみという道標を失い、あの少女を護り導くという分かり易い目標も失ったのだった。


　私は眠らないから夢も見ない。
　過去を思い出すとき、それは一瞬のフラッシュバックという表現が近い気がする。もしかすると、脳が情報の整理をしている瞬間なのかもしれない。
　それが訪れた後は、今ここが何処で、何時なのか曖昧になる。視界に飛び込んでくる全方位の輝きに、再び戦地の中かと身体が軋りそうになる。
　——すぐにこれは水面の輝きだと思い出し、緊張を解く。
　いつ敵襲があるか油断ならぬ世界ではないにせよ、一応は戦時下だ。警戒は怠らないようにしているが、あまり実ったことは無い。
　今も同じだ。周囲に危険の気配は無く、仲間達もひとときくつろいでいるように見える。
　せせらぎが絶えず、木々が風にそよぐ音は思いの外騒々しいということを、この世界にきて初めて知った。
　目の前には輝く水が嘘のようにあふれ、いずこからいずこへと流れていく。腐敗した黒い泥のような水では無い、絶えず流れていく清らかな色。差し込む陽光が透けて、波間が眩く。
　これを「美しい光景」だと解釈することはできても、「美しいからどうなのか」までは解らない。
　異なる道を行った少女が今どんな光景を見ているのかは解らないが、美しいものであればいいと思う。
　美しい光景というのは、私などよりもちゃんと受け止める心を持っている人間が見るべきなのだ——まあ、こんな事をはっきりと言葉にしたりはしないが、私は心からそう思っている。

　それでも、旅を始めた動機が動機だ。
　空虚な中に本物が宿るのか、そのためにどうしても思い知らなければならない——自分は生きてはいないのだと。
　感情も死んでいる。味覚も死んでいる。
　零下の世界にひとり残されている。
　人形達の中でも特殊な生まれの私には「普通の日常」というものが抜け落ちている。
　他の人形達は多くが「自分は生きた人間だ」と錯覚して人間だった頃の日常を繰り返す。自我を持つのは生前の記憶が残っているから。生前に食べて、寝ているから、自分は死んでいるという事実から目をそらすように、それを繰り返す。
　「理性は形に宿る」とは、人形師達がよく口にする金言だが——人の姿をして自我を持つものの、人形に人間らしい営みは本来不要な物だ。
　多くの人形は兵器だ。町人として仕事をこなすものたちは道具だ。
　だが、人の形をするがゆえに、維持するために、記憶と自我を守るために人としての営みを偽る。
　あの《隻眼の天使》もそれは同じだ。尤も、彼は知識の上で不要だと知っているから食事を摂らなかったが、身体は苦痛を覚えているようだった。世界や自分を憂う心を持っているようだった。
　そんな彼になら解るのかと、自分の状態を尋ねてみたことがある。彼は呆れたように——まるで出来の悪い弟子を眺めるような目で一瞥すると、素っ気なくこう告げた。
「身体が凍えて、感覚が無いのは当たり前だ。兵器が恐怖を感じては話にならないだろう？」
「食事をする必要があるなら、屍をリサイクルする意義もない。ましてや美味を感じる必要は無い」
　期待はずれの言葉だった。
　《自分を持って生まれてくる人間はいない》と天使は語るが、《自分を持たず生まれた人形》には本当に何も無いのだと、誰が知るだろう。同じ人形でも、彼らにこの欠落は理解はできないのだ。
　人の感情を解釈できても理解と同調は出来ない——結局、暴力を元にした働きでしか、私は自分の価値を見いだせない。今のところ。


　メルンテーゼにやってきてから、暇な時はぼんやりと水辺を眺め、自分や人の事を考えている。
　だからなのだろう、改めて他人との違いに悩まされる。
　見たことの無い文化、見たことの無い服、見たことの無い武器。食文化、趣味、嗜好——そういったものは元の世界での娯楽と言えば人形師の特権で、非人道的かつ背徳的なものであると決まっていたから、趣味があるのある人間と言えば変人奇人の類いだと思い目を背けてきた部分がある。
　変わっているのは何も、無感覚であることや、本質的に情緒が欠落していることばかりではない。
　——掌に視線を落とす。
　一般的な位置に存在する右手、戦闘でよく使うものの中指から小指までが根元から絶たれている。たしか変な魚に噛みつかれたのだ。指の先はちゃんと取り返してある。これを縫い合わせねば、と腰を下ろしたところで、古い記憶が蘇ってきたのだった。
　指の欠落程度なら、それが粉砕されていなければ縫えば事足りるが、たとい自分のものが失われても他から奪うこともできる（私の血液代わりになっているものには、繋げた素材の防腐処理をし、己の肉体に相応しい状態へと変えてくれる機能があるらしい）——そんな身体が普通だとは思わない。肉体再生能力がある者の方が未だ可愛げがあるだろう。
　ちぐはぐな縫い目になっても取り敢えず形が戻れば良い。縫合は血液が巡り素材を自らのものにするまでの仮止めに過ぎない。
　しかし正直、指の修復は手間がかかる。適当な仕事をすると歪んで繋がり、拳を握ったときの強度が落ちて困ることになる。指を落とす事に比べれば、腕から下を引きちぎられる方がまだ楽だ。
　乱暴な話、もう一度指を落としてしまえば、やり直せるので問題は無いのだが——兎に角、私の縫い方は雑で——「見ていられない」といつかの少女は針と糸を奪い取り、短い時間で見事に縫い合わせた。出来映えは立派で、まるで傷など初めから無かったかのようだった。
　だが、彼女が直してくれた箇所で無事な部分はもう残っていないだろう。私は自分を削りながら戦うしか能が無い。思い入れがあるわけではないが、彼女と戦った日々がまた遠ざかって行くのだと——またそんな事を考えてしまい、げんなりとする。
　あの少女は過去であって未来ではない。考えるのを止めようと決めたはずだが、今日はやたらと意識がそこに向く。

《生者と死者の行く道は異なるものだから……見つける世界も、見つけられる結果も、違うのよ。いつか解るわ。貴方は無意味なんかじゃない、大事な「我」なんだって》

　最後の言葉の続きが、ふと浮き上がってくる。
　彼女が自分にどんな祈りを託したのか——もう確認する術もなければ、理解することもできない。
　けれど確かに言ったのだ。私だけが見つけられるものがあるはずだ、と。
　その言葉を無意識に信じて此処まで来たのか、と今更気付いて、驚いた。まるで今の迷いを忘れよと告げるかのように都合良く思い出したことも。

　人と言葉を交わし、相対すること。
　恐らくはそれが切っ掛けで滞っていたものが流れ出してきたかのだろうか。
　いつまでも過去や記憶がないなどということを言い訳にはできない——自分を作る記憶、というのは確かにあの世界にあり、今も作っている。
　本来不要な無意味なことでも、この世界で行った事はいつか本物になるのだろうか。
「……まずは、指を直すか」
　水に濡れてふやけてしまっている指先を、このまま繋げていいのかどうか。
　現実と向き合ってみれば、別の悩みが浮上してきてしまったのだが。


●イドさんとボク

ギガヤの発言になんと声をかけたものか悩みつつ