その風は懐かしい匂いがした。
　エンブリオとの契約。それはこの世界で強くなるためには避けて通れない要素だ。この世界では、エンブリオに自らの力を送り込むことでその加護が強くなるからで、それ以外に自らを成長させる方法がないからだ。
　他の世界でいう精霊のようなもの、とはいっても、敵として戦う分には実体が存在する。契約に適したエンブリオを倒し、その後に契約を結ぶことで、彼らはその能力を契約者に分け与える。だが、それによって彼らは力を失う。どうやらこの過程は契約者によって、また契約するエンブリオによって様々なようで、一度彼らを物質から解放してしまい本当の意味での精霊として契約するやり方もあれば、彼らをそのまま留め置いて連れ歩く者もいた。何にしても結果は同じで、契約者に力を与えるエンブリオは自らで戦えるほどの力を残さない。再び実体を与え、もしくは以前のようにある程度の戦闘力で、戦列に加えるにはより強い契約者との結びつきが必要になるのだった。
　アイヴォリーにとって、ここに来て最初に半ば強制的に契約した風の乙女を除けば、初めての契約の相手が目の前にいた。

「……ネコ、だな。」

　ケットシーは一般的には猫の妖精とされている。人語を話し、二足歩行するともいわれる。アイヴォリーの目の前にいたのは、まさにそんな猫だった。

「ネコ、だな。」

「うむ、猫だにゃー。」

　何を確認したいのか、もう一度復唱したアイヴォリーに目の前の猫が答えた。猫だからなのか、もしくは単にやっつけでなのかは分からないが、お約束過ぎて猫も興味を示さないような語尾がついている。

「まァ、イイ。とりあえずヨロシクな。
　うん、ネコの飼い方は知ってるツモリだし心配すんな。」

　普通の猫相手ならまだしも、精霊に対してでは明らかに失礼な発言で契約というか挨拶するアイヴォリー。それに対し猫、もといケットシーは鷹揚に頷いた。戦いに敗れ、契約を迫られればエンブリオの側に拒否権はないのかも知れないが。
　もっとも、彼が言うようにアイヴォリーはどうにも猫に縁があるらしい。かつて同じ集団に所属し同じパーティで戦ったこともあったCatRYUは獣人であるとはいえ非常に猫の特性を持っていたし、それ以前にある島で探索していたときには、ペットとして黒い山猫を連れて歩いていた。その頃に同じように島で探索していた友人に擬人化魔法を戯れにかけられた挙句、その猫は未だにアイヴォリーが拠点にしている街までついてきて彼らの住まいに住みついてしまっていた。その眼の色から“イブニングスター”と名付けられた“彼女”は、かけられた魔術が途轍もなく強力だったためにそれ以後本人の意思で人の姿を取ったり猫に戻ったりを繰り返し、しかも人間になったのをいいことに言いたい放題好き放題でしょっちゅうアイヴォリーを困らせているのだが。
　何にしても一応契約は結ばれたらしい。ケットシーの姿が薄れ、空気に溶けるように次第に淡くなっていく。隠密行動を得意とするアイヴォリーだけに、あまり必要以上に連れ歩くことは気が進まないらしい。必要になればアイヴォリーから彼のいう“魔力”を与えて実体化させるのかも知れないが、そうなるとしてもそれは当分先の話であり現状ではあくまでも精霊扱いらしい。

「マタメンドクセェコトにならなキャイイんだケドな……。」

小さく呟いたアイヴォリーの言葉は、少なくともケットシーには聞こえなかったらしい。懐かしい匂いだけを残して、既にそこにはアイヴォリー以外何もいなくなっていた。