一揆の始まって三日目の夜、枯れた土地での敗戦後。
拠点であるマァムブの体内に皆の集まり、そこでグリゴリはクリストファーから撤退の報告を聞くと、無言でその胸倉を掴み上げた。
カミユがあっと声を上げる間もなく、いとも簡単に吹っ飛んだクリストファーの身体は、カミユや樹里を巻き込んで崩れ落ちる。

呆然とするカミユの目の前、次は皆の巻き込まれないよう、壁を背にして立ち上がるクリストファー。その華奢な影。そうしてなおも行使される暴力、グリゴリにしてみれば厳粛な罰なのだろう、激昂の様子を見せる事もなく。当然の義務であるかのように。


カミユはアルームの村を出るまで、暴力というものにおよそ触れずに育ってきた。
暴力、切り裂かれる布、叩き付けられる硝子あるいは陶の食器、ブツリと音を立てて切られる何か重いものの下がった縄。破裂音、稀の雷鳴、暴れる家畜の蹄あるいは角の向き…そんなものに触れた時の、心臓の跳ねるその一瞬、それが止めどなく押し寄せる。
グリゴリの暴力は、眠るように、あるいは歌うようにいなくなった天使病の人々に感じた這い寄るようなそれではなく、もっと直接に…例えば冷たい水を突然浴びせられたような、そんな…恐れ、あるいは怒りとなって、あっという間にカミユを支配した。

明確な害意。振り上げられる腕の、足の、ためらいのない流れ。
カミユには理解がつかなかった。なぜ自分の目の前で、クリストファーがこれほどまでに一方的な暴力を受けているのか。

メルンストゥーラの頭であるグリゴリと、その参謀のような立ち位置である（とカミユは思っていた）クリストファー、二人の関係は決して傍目にも良好なものであるとは言い難く、時折クリストファーの身体に痣のようなものを見つけることもあった。それでも、まさか。いつもこんな風に。と、ベージュの陶器のようなカミユの肌が、みるみるうちに青ざめる。心臓は重く跳ね続けている。


腹を殴られたクリストファーが嘔吐する。吐瀉物の匂いが鼻をつく。
生理的なものかそうでないのか、いずれにせよ涙に濡れたクリストファーの横顔、それを見下ろすグリゴリの冷めた瞳。
樹里やリセナの様子が気にかかった。
張りつめた空気の中、カミユは無意識に視線を巡らせてグレイマンの姿を探した。縋るように。

クリストファーの喘ぎが床へ落ちて行く。カミユは震える手で口元を抑えた。











…





夜、マァムブから出、無いよりはましといった程の食料を買うために、カミユは行商人の集まる野営地へ赴いた。
必要なものを揃えて野営地を出、広い庭を歩く。足取りは重かった。昨晩の一件から、恐れ、怒り、不安…そういったものがぐしゃぐしゃになったような感情が、背筋のあたりに留まっている。

…

…

ちょっとはにかんだような、緊張したような、少しそわそわとしている。
落ち着きがないようだ。

広庭。
昨晩のグリゴリとクリストファーの一件からあまり覇気がなく、
樹里に対してもやや気まずげな様子だったが、
ふと、カミユは辺りに小さな花の咲いているのを見つけると、片手でそれを指し示す。

場を和まそうとしているのか、言い言い、鞄から赤茶色の花を一つ取り出す。
恐らく最近に摘み取ったのではないだろう。もはや色褪せ、花びらは乾いて捩れている。
しかしその色と形から、エンブリオとの契約に使う花だということは見て取れるだろう。

少しの間手の中の乾いたネクターを眺めていたが、やがて鞄にしまいなおした。
それからおもむろに庭に咲く花を摘み取ると、樹里の耳の上、髪の間にそれを挿した。

カミユが1人でいる所に、グリゴリのエンブリオが飛び出して来た。
周囲にグリゴリの姿は見当たらない。
　

エンブリオは楽しそうに飾り紐を揺らす。
　

カミユが判らない、と答えるも「そういうものか」と理解を示しリレッタは頷いた。

そうして、カミユが戻ってくる頃には色々と準備が進んでいるのが判る。
器から以前も出された、リゾットやグラタンが出るのも解るだろうし
奥の竈に火が焚かれ、生地があるのを見ればピッツァかそれに準じたものも出るだろう。
下拵えの準備も万端に、大皿が置いてある。肉料理は此処に豪快に乗るのかもしれない。

これらを一人でやるのは骨だろうが、ほんの時折だが戦闘中に
彼女の傍で見かける黒い精霊が姿を現し、補助をしているのが見える。

と、少し昔の事を思い出したのか苦笑気味にこう続けた。

森を歩く少年を、じぃっと見つめ

少年のすぐ後ろを指さして、ふしぎなかたちだなぁ…と呟いた

空中に問いを浮かすように上へと登っていく煙に視線を向けて、一拍。
　

　
問いの先を求めないように、言葉を続けて、
口元を隠した手の下で短く息をついた。

　
カミユの背後で瞬く金色の瞳へと視線を投げ入れ、
俯く少年がなす回答を立ったままに聞く。

回答に巻き毛を見おろしてから視線を放り、回答を煙と共に吐き出す。

続いたカミユの言葉に、言葉を止めて、上げられた青い瞳を見やる

向けられた視線に軽く眉を上げてから、いくらか天秤を測るように沈黙が挟まれ、
ついで、ややも呆れに似た表情が面に浮かぶ。

深く肺に吸い込んだ煙を上に向かってゆっくりと吐き出して、
灰色に世界を濁らせる、不定形のもやが消えるのを待つ。

そこまで深刻な自体にもなるまいとは思えども、
秤にかけた結果をそうぼやくように口にする。

ついで、移ろう話題に、まだあるのか。と視線を投げ

向けられた言葉をそう伝えて肩を竦める。
微かに皮肉な笑いを口端に乗せて、感慨を歯の間で噛み潰す。

言いながらしゃがんで、足元の小さな黒い影を片手で掴む。

無造作な掴み方をされた黒猫は、きんいろの瞳を
きろきろとカミユに向けている。

少し離れた道から突然、不自然な桃色の髪をした女が駆け寄ってくる。金の巻き毛をした少年のもとへ駆けながら、その目は少年の背後を見ているようだった。

その声はどこか間が抜けていて、大きい。
すぐに少年の近くまで寄ってきた。

女は至極残念そうな顔になり、辺りを大分見回した後で少年へと向き直った。

夢愛と名乗った女は、珍しいものを見た高揚感に任せて遠慮なくまくし立ててくるのであった。