ぷち、ぷち、ぷち。手の中で、トマトが小気味良い音を立てて木から離れる。
食べ頃に真っ赤に染まったそれは、竹林の屋敷の中で育てられたものだった。
夕飯用に人数分捥いできて、と頼まれたのを思い出して、一人何個食べるのだろうと頭の中で計算する。
ふと、指折り数えながら何気なく空を見上げると、トマトと同じような赤が沈んで行くのが見えた。
今日も一日がもうすぐ終わるのだ。


「イオはちゃんとすすめているのかなぁ…」


マザーに言われるがままに歩みを進めてはいるつもりだが、自分が何を指針にすれば良いのかが分からない為に、進めているのか、いないのか。速度は早いのか、遅いのか。何も分からないままでいた。そもそも、どんなスパンで進めばいいのかも、わたしは知らされていないのだ。


「……もどろう」


半分顔を隠した太陽を見て、慌てて立ち上がる。その時だった。

リィィイイン。リリリリリン

けたたましく、鈴の音が鳴る。
「な、なに？」慌てて音のした方へと見上げれば、銀色の何かが勢いよく自分の方へと突っ込んできた。驚きのあまり、尻餅をつく。「いたいなぁ！なんなの！」

自分にぶつかる事によってようやく動きを止めたそれは、紛う事なくわたしのエンブリオであった。
衝撃の為か、鳥のくせにヨロヨロと千鳥足だ。
零れ落ちてしまったトマトを拾い上げていると、今度はピィピィと喧しく鳴きながら服の裾を啄ばみ引っ張ってくる。
本当になんなのだ、いったい。無視しようかと思うも、そうすると力一杯身体を啄ばんでくる。けれども、何かと聞いてもピィピィと鳴くばかりで、何の事かも分からない。
何処かへ連れて行こうかとしているのか、鳥は力一杯嘴や足の爪で服を引っ張り続けるものだから、とうとうスカートの裾が小さくほつれてしまった。


「あぁあああ、もう」


手元のトマトを見て、ため息をつく。夕飯用であるから、早めに戻るにこしたことはない。
けれど、この鳥はそうさせてはくれないだろう。


「ちょっとだけだからね」


トマトを載せた竹皿ををその場に置こうとすると、「遅いのう」と、今度は足元から声がした。
「わ！！！！」驚いて、再びトマトを落とす。
すると、下からも「わ！何をするんじゃ！」と声がした。
慌てて視線を下げると、小さな瞳と目が合う。更に驚いて腰を抜かすと、小さな瞳の持ち主である小さな老人が「何じゃ、お前さん随分と弱そうになったもんじゃの」とわたしの膝の上でホッホと笑った。


「お前さんのエンブリオに、お前さんをワシの所まで連れて来いと頼んだだかの、余りにも襲いもんで此方から来てしもうたわ」


もう何の事だか分からずに、肩に止まる鳥を見やれば、ピッと短く声を上げる。
もう一度視線を下に戻すと、老人が髭を何故ながら言う。

「預かっていた物を返しにきたぞ」


突如、周りから音が消え、色が消える。
頬を強い衝撃が襲い、土の臭いが鼻を掠めた。
倒れたのかな、と思う前に、思考が途切れる。


景色が、暗転する。












「ーーーー…？ーーー！」「ーーーーー」

何処か遠くから、誰かの声が聞こえた気がする。何を話しているのかは聞き取れないが、2人分のものであろうその話し声は、時折笑い声が混じっていた。
ゆっくりと目を開くと、真っ暗な闇。けれど、ほんの少し離れた所に小さな明かりが揺れてる。光が近づいてくるにつれ、それは提灯と呼ばれる火の灯りだというのが分かった。手持ち棒を辿れば、人影が見える。灯りで照らされているはずなのに、顔はどうしてか、どれだけ目を凝らしても暗闇が覆うかのようで、見えなかった。


目の前を通り過ぎる人影を、視線で追う。
2人組の影は、提灯を持った方が、もう片方の腰にそっと手を回して、転ばない様に守っているかの様に見えた。
高い声が、賑やかに話している。それに相槌をうっているのか、やや落ち着いたトーンが時折混ざる。

「まって」
無意識のうちに、影を呼び止める。
2人の影を覆う空気が、どうしてだかとてつもなくわたしの胸を締め付けた。
あれは誰なのか、何なのか。何も知らないのに、酷く懐かしさを覚えた。


「まって！！！！！」


遠ざかる灯りに、慌てて声を上げる。
行かないで。お願いだから。わたしを一人にしないで。
それでも、灯りは止まる事なくゆらゆらと揺れながら、小さくなっていく。


「ねぇ、まって！！おねがいだから、おいていかないで！！！」




誰かの叫ぶ声がした。目を開く。薄ぼんやりと、木組みの天井が見えた。
ポタポタと頬を何かが伝う。手で頬を擦ると、水滴がついた。驚いて拭うも、拭っても拭っても水が流れ落ちてくる。どうした事か、目から水が止まらないのだ。
ぼんやりと薄く照らす行燈が、見慣れた部屋に居る事を示す。
混乱する思考をさらに乱すように、目から水は止まらない。


「な、に…これ…？「イオちゃん！！！？」」


パンっと音を立てて、急に勢いよく襖が開く。
そこには、息を切らせたユクリが立っていた。
「あぁっ…！目が覚めたんですね、イオちゃん。良かった、心配したんですよ。庭で眠ったまま、呼んでも呼んでも起きないから」

状況が掴めなくて、ただ目の前の少女を見つめ続ける。

「ってイオちゃん泣いてる！？えぇっ、どうしたんですか！？何か叫んでましたし…！夢でも見ました？」
慌てて部屋に入ってくるなり、「ごめんなさいね、さっきまで心配で横で一緒に寝てたんですが、わたしちょっと喉が乾いてしまって」と言いながら、服の袖でわたしの頬を拭う。


「ここ…どこ…」
「えっ、どこって…竹林のお屋敷ですよ？イオちゃん、夕方お庭でまた倒れて寝てたからイドさんが運んでくれたんです。覚えてないですか…？」
「だって、さっきまでちがうところにいた。まっくらのなかで、あかりがみえて。それでだれかがきたから、イオおいかけたのに」


あの影はどこへ消えてしまったのか。わたしをこんな所に置いて。
どうしてわたしも連れて行ってはくれないのか。どうして、どうして。


「あかりがきえるのが、いやで。まってっていったのに。おいていかないでほしいのに」
胸が痛くて、締め付けられる。
またポロポロと雫が布団へとこぼれ落ちた。


「イオちゃん、夢を見たんですよ。夢。もう大丈夫ですから。ね？」
「ユメ…？」
「あぁ、そうかぁ。もしかしたら初めて見るのかな？眠っている間に見る景色のことなんですけれどね」


暖かくて大きな手が、ぎゅうっとわたしの手を握る。
「もしかしたら、イオちゃんは今、夢と現実が混ざってしまっているのかもしれないですね。大丈夫です。夢は目が覚めると消えますから。今、握っているこの手の温かさが、現実です」


今は此処に私がいるでしょう？と抱きしめられて、堪えきれずに声を上げた。

部屋の中に、わああああ、と、鳴き声が響く。
「大丈夫ですよ、大丈夫」とゆっくりと背中をさすられて、 ようやく胸の締め付けが少し取れた気がした。


「イオさん平気そうですか？」


背後から声が聞こえて、顔を上げれば、フワリと香ばしい匂いが部屋を通る。


「あっ、ホノさん。声聞こえちゃいました？」
「大丈夫です。自分も偶然目を覚ました所でしたので」

ユクリが慌てたように小声になれば、気にするそぶりも見せずにホノは手にしていた茶器を床に置いた。カチャカチャと音を立てて、湯呑にお茶が注がれる。「眠れない夜には、たんぽぽ茶です。どうぞ」


ユクリの膝からおりて、布団に座る。そっと手を伸ばせば、柔らかな湯気が顔を覆った。
「ユクリさんもどうぞ」と、もう一つ差し出されたお茶を受け取って、3人で盆を囲む。
「ふふ、ありがとうございますホノさん。美味しいです」
「こんな時間にお茶というのも、悪くはないです」


湯呑を覗き込むと、八の字型の眉をした自分と目があった。こんな顔も出来たのか、と思っていると、一つの光景を思い出す。
「あ！！」
「えっ！？」「どうしました？」
つられて驚く2人に、「おじいちゃん、みなかった？ホノよりもっとちいさい…」と言うも、「夢の話ですか？」と首を傾げられる。
「ちがう、トマトとってたときにあったんだ。そこからイオはおぼえてない」


そうだ。自分は倒れる前に小さな老人を見たのだ。そこから記憶が途切れているのなら、その老人に会った時に何かがあったのだろう。そう思うも、探そうにも外は真っ暗で、地面など見えそうにもない。


「んんん…エンブリオか何かですかねぇ…？」
「あ、イオのトリは！？」
「眠っていますよ、そこで」


ホノの指差す方へ振り向けば、布団の上で目を瞑って眠ってる姿が一つ。
わたしが夢というものを見ている間も、こう呑気に寝ていたのかと思うと、少し心がモヤっとした。


「まぁ、明日探してみましょう。今日はもう遅いですし」
「またユメみる？」
もう、あんな分に胸が痛むのは嫌だと思うも、隣りでお茶を飲んでいたホノが「大丈夫です」と空を指差す。


「だってほら、お月様も笑っているじゃないですか」


見上げれば、大きく欠けた月が空に浮かんでいた。成る程、見ようによっては、ニタリと笑っている様にも見える。
「あぁ！本当ですね。お月様にあぁも笑われちゃ、怖い夢も嫌な夢も、もう出てはこれないですよ！」


「だから、安心して眠って下さい」。そう言われて、そうか。大丈夫なのか。と月を眺める。何が楽しいのか、そこまで笑わなくても。と言いたくなるような月が、こちらを見ていた。
その笑顔に、ほっとする。

しっかり見ていてくれよ。明日の朝が来るまでそこに居てくれよ、と心の中で呼びかけて、残りのお茶を一気に飲み干した。







初めて感情が一つ戻る。
夢の話。

遅い。

森の中を吹き抜ける、撫でるような優しい風が、魔女の髪と貴方の髪を揺らした。
魔女はしばらく貴方をじっと見つめていたが、やがてゆっくりと口を開いた。

それだけ言うと、少しあたりを見回して。

彼にしては珍しく強めの口調で少女に忠告しておく。
自分が死体であると誤解させて、自分のような無茶をさせてはいけないと思ったようだ。

少女の心強い言葉に同意し、彼は頷く

最後の一言は自嘲混じりに、小さく呟かれた。

（背筋を伸ばして）

そういうと自分のちいさなかばんから
香ばしそうに煎られた黄色の豆をいくつか掴んで少女の口へ押し込んだ