「は、ふぅ……」
　満天の星空の下、レーネフィア・ディ・ステラが安堵の息を吐く。
「良いな、ここは」
　傍らの男——風斬東は、流れ行く川辺を眺めて言った。
「悪くない風景ですわね」
　賛同するレーネフィア。宝石のようなこの景色を前にして、異論など有るはずも無かった。
「こんなにも綺麗な所だと、なんだか現実味が無いですね。……記憶の無い僕が、“現実味”なんて言葉を使うのも変な話ですが」
　僕——ミラルカ・ハウダニットは記憶喪失だ。
　　　　　フラッシュバック
　時折、記憶の断片めいたものが脳内に走るが。未だその記憶の大部分は闇の中であり、僕がどんな人間——もとい、吸血鬼であったのかも解ってはいない。
　記憶とは自己を構成し確立する、重要な部分。これが抜け落ちた僕は、今何をすれば良いのかさえ考える事が出来ない。
　だけど——。
「——こんな景色が見られるのなら。この旅も、悪くないかも」
　そんな風に、今は思えた。

「貴方達、感傷に耽るのも良いけれど」
　ぴしゃりと言い放つ声。声の主は、先程まで黙っていたネロスフィーネ・アバド。
「……？」
　僕は、思わず首を傾げる。
　彼女は目的の為なら幾らでも厳しくなる人物だが、平時に厭味を言うような無駄な真似をするタイプではない、というのが僕の評だった。
　となると何か、意味が有るはずだが——。
「……魚臭い？」
　そう言ったレーネフィアの声を皮切りに、ぴかぴかと瞬く光の玉が現れる。
「さぁて、準備は良いか、紅月」
「行けるよ、おうさま！」
　続けざまに、東が臣下である少女に声をかける。
　ネロスフィーネの方を見やると、既に手には鞭を握っていた。
「……たはは。足、引っ張らないよう気を付けますね」
　三人の様子を見て、慌てて武器を取り出す僕。
　既に先行きは不安になっているが、どうにかする他無いだろう。



《アー、アー、アー、本日ハ晴天ナリ》
　通信機の向こう側から、くぐもった声が響く。
「不吉なマイクテストだ事で。何だか調子が悪そうですね？」
　そう告げるのは、以前ミラルカが邂逅した銀髪の少女。
《いやあ、朝まで報告書を作っていたからね。やっぱり、ボクは実験だけしてるのが一番向いているよ》
「実験だけで金は手に入らない。そのくらいはお分かりでしょう？」
《まぁね。——で。ミラルカの足取りは？》
「掴めそうです。既に何人かの同行者を募り、一揆に積極的な参加を「ヘイらっしゃい！！」

「……」
《…………》
　レモラだ。突如水の中から現れたレモラが、二人の会話を遮った。
「……やれやれ」
《………………寿司屋にでもいるの？》
「今捌いてしまいます」
　少女は懐に差した剣を抜くと、眼前のレモラに向けた。

「ほらほら来な来なあぁぁ！！」

　怒涛の勢いで突撃してくるレモラ。
　少女の姿が、煙のように消失する。レモラの一撃は空を裂き、技を発動し隙だらけの背後からは声が。
「——さようなら。良き旅路を」
　次の瞬間、勢い良く飛び跳ねていたレモラは切り刻まれ、傷跡からは緑の液体を噴き出した。

《ひゅー。見事なまでの噛ませ犬っぷりだったね》
「何の事ですか」
《良く或る事だよ。……で。ミラルカの同行者、ってのは？》
「あぁ。同行者は全部で7名だそうで」
《へえ。大所帯じゃないか。具体的な面子は？》
「私も目撃情報から割り出しただけなので、詳しくは分かりませんが——」

　　†

「——前ッ！？」
　川から、突如として鉄砲水が飛び出す。鉄砲水とはいってもその勢いは凄まじく、まるで弾丸のようであった。
　目を凝らすと、水面にはぷかりと、龍魚が浮かんでいた。
「不味っ……！」
　回避が間に合わない。東・レーネの二人は既に攻撃に対する警戒が出来ていたようで、突然の奇襲にもしっかりと対応出来ているが。
　僕はと言うと、今の今まで敵の位置すら把握出来ていないという体たらくぶりだ。
「っ、躱せないか」
　諦め、防御の姿勢に移る。しかしこの状態ではそれすら敵うかどうか——

▼ネロの行動！
フェアウィンド！！
ミラルカのAGIが上昇！

「——！」
　体が、羽根のように軽い。これなら、直撃は免れる事が出来るだろう。
　ネロの方を思わず見やる。どうやらこちらの様子を眺めていたらしく、眼が合った。
「…………」
　ぷい、と視線を逸らされてしまった。無論アイコンタクトを交わしている暇は無いが——。
「——っ。でも、これなら、大丈夫」
　背後に飛び、鉄砲水の勢いを殺す。致命傷にはなっていない。まだ、戦える。

「ガンガン行くぜ？」
「うん、準備オッケーだよ！」
　　　　よ　ろ
　僕が蹌踉めいている間にも、東は反撃の準備を整えていた。臣下である紅月は、東の全身に炎を纒わせる。
　常人ならば自身の豪炎で焼かれてしまうであろうその技も、竜である彼には親しみ慣れた温度であるらしい。
「くははっ、奔れェ、焔ォ——！！」
　竜が、龍魚を下す。
　しかし僕が“当たる”と信じて疑わなかったその一撃に対しても、龍魚は驚く事が無かった。
「——……力任せな」
　龍魚の奴は事もあろうに、そう言ってのけたのだ。
　それもそのはず、彼が位置しているのは未だ水の中。潜れば容易に躱す事が出来るし、何より——
「——しまった、此処は水場だ！」
　僕は思わず叫び声を上げる。
　駆け抜ける炎であろうと、水の前では煙に変わる他無い。これは絶対の真理であり、変わる事は無い——。

　——ちか、ちか。
　特徴的な光が、電球のように煌めく。これはレーネのエンブリオが発する輝きだ。
「……一応言っておきますけど、私に撃つのではないですからね？」
「……！」
　そう言い終わるやいなや、龍魚の顔に焦りの色が浮かび上がる。バチリと音がしていたので、恐らくはレーネが何か仕掛けたのだろう。
　龍魚はぱしゃぱしゃともがくように尾を動かすが、東の火を消す程の動作では無いようだった。
「———そこォ！」
　東が、勢い良く飛び膝蹴りを喰らわす。じゅわりと皮膚を焼く音が鳴り、龍魚は苦しそうに呻いた。
　ビチビチと跳ねる龍魚は何処か滑稽で、先程までの老獪な様子はすっかり消え失せていた。
「終わった、のかな……？」
「まだよ」
　ネロが鞭を牙のようにしならせ、龍魚の肉体を真っ二つに切り裂く。
「——進みたければ、進むがいい」
　そう遺言する龍魚は奇妙な程に穏やかな声色で、先程までの苦しげな態度が本心からのものでは無かった事を示していた。
　あのまま僕が不用意に近付いていたら、恐らく反撃を食らってしまっていただろう。

　　†

　僕は、記憶喪失だ。
　だから吸血鬼がどんな存在かも解らないし、どんな強い人がいて、どんな弱い人がいるのかも解らない。
　だけど、この三日間で、確信出来る事はあった。

　この同行者達は、強い。
　それは吸血鬼や竜人という種族の問題も有るのやもしれないし、そうではない、経験のような物に裏付けられているのやもしれない。
　だけど、これ程までに貧弱な僕が、これまで生き残れたのは。ひとえに、同行者の彼女らが、圧倒的な強者であったからなのだろうと思う。

「この旅、僕はすぐ死んでしまうかも、と思っていたけれど。存外、生き残れるかもしれないね」
「それは良かったわ」
　　　　　　　　　　　　ネ　　ロ
　そう言ったのは、雇用主である。
「皆さん強いですからね」
「えぇ。安心だわ。貴方なら——別のパーティでも」
「えっ？」
「じゃあ、頑張って」

　訂正。
　僕の寿命は、蝋燭に灯された炎のような物なのかもしれない。

　少年は帽子をさっと取り、恭しく頭を下げると、僅かに不安げな表情を見せた。