平原の魔物を掃討し、屋敷に戻って来たと同時に私は浴室に駆け込んでいた。
あの半固形でゲル状の魔物、アメーバを相手にした際にスーツだけでなく顔や髪にも満遍なく体液が飛び散ってしまったのだ。
ツグミがあの緑色の体液で汚れることが耐えられなかったこともあり、いつも以上にツグミを守るような立ち回りをした。結果として、自分が相当浴びることになってしまったがそれはいい。洗えば落ちることだ。
戦闘が終わり、ツグミに汚れひとつないことを知って私は心底安堵した。
そのツグミは私が浴室に籠っている間は一人だ。しかし、自らの意思で何もすることがない以上屋敷の中ならさほど危険はない。（流石に中から返答がなければ、男の部屋を平気で開けるお転婆なお嬢さんたちも居ない筈だ）
「ツグミ。私はしばらくシャワーを浴びているから、そこで座って待っていてくれ」
「……………………………うん」
椅子を指してそう言うと、ツグミは静かに座りどこともつかない方向をぼんやりと見つめていた。私はそれを確認すると、早々に浴室に引っ込むことにした。
元の世界に居た頃ならば、この体液を浴びたスーツも処分していたところだ。しかしこの世界では物資が貴重であることは重々承知している。強襲してきた兵士もろくに金を所持していなかった。（勿論セロが奪った腕章と引き換えに幾分「紳士的な交渉」により譲ってもらった）
洗うだけ洗って何とか着なければならないと考え、脱ぎ捨てて置くわけにもいかず服は水におざなりに漬けておく。
洗濯機以外で服を洗うことはなかったが、ここでは恐らくそうしなければならないだろう。私は珍しくため息をひとつ吐き、憂鬱な気持ちごと全てを洗い流そうとシャワーに手をかけた。


＊＊＊＊＊


ツグミは音一つ立てずに静かに待っていた。
薄く呼吸をしていることを除けば、それは人間ではない何かであるような錯覚さえ覚える。まるで、人間の姿をした機械のような静謐さがそこにはあった。
ユーグがそこで待っているように、という言葉を残したが、ツグミは律儀にそれを守っていた。
ことユーグに関して、世話をしてくれているという感覚はツグミにはあるらしい。基本的に話を振られても何も返答しないツグミが、唯一普通に受け答えをする相手でもある。
ツグミと意思疎通をすることは難しい。
例えば誰かが——本当に誰でも良い、見ず知らずの誰かであったとしても、声を荒げて命令しようものならツグミはそれに従うだろう。それはユーグも十分に分かっていることであり、それを避ける為に常に連れ添って行動している。
ツグミのまるで水のようであった。流れに任せ、周りに干渉されることもなく、ただ静かな水面を湛えている。その中を思考が揺蕩っているようだった。
しかしその水面から顔を出すことがツグミには出来なかった。思考の中でどれ程もがき、揺れていたとしても凪いだ水面にそれが出ることは決してなかった。そして、それ故に本当にツグミが何かを思っているのかを判別することはかなわなかった。

ツグミだけの空間は、まるでそこが切り取られたようだった。
ほんのすぐ傍で、ユーグがシャワーを浴びている水音が聞こえる。
ほんの数部屋先で、ルクリやトーカが談笑している声が聞こえる。
しかしそれらは膜を張ったようにツグミの空間から隔離された音のように聞こえるのだった。

「………………………………」

どれくらいそうしていたか。恐らくそう時間は経っていないが——
ツグミが、ふいに窓の外を見た。


「……………………………うん」

隔離された空間で、ツグミは静かに口を開き誰に対してか分からない相槌を打った。
「………………………………」
しばらくの間があった後、ツグミは窓の外を見やったままひとつ頷いた。まるでそこに誰かがいるような素振りであったが、窓の外には勿論というべきか、誰も居なかった。
頷いた後に一呼吸整えると、ツグミの瞳は茶色から急激に黄色へと色を変えた。ユーグであったならば、能力を使う度徐々に瞳が水色になるという現象が起きる。これは能力を頻繁に使うということもあり、周りの面々には良く知られている。
ツグミはユーグとは違い、能力を使うと即時に瞳の色が変わるようだった。
ツグミの能力——同行者の中でも知っているものはまだ元々同じ世界に居た墨染佐久呂と百日紅くらいのものだ。ユーグが積極的に見せることを拒んでおり、自らの意思で行動しないツグミはまたそれに倣っていた。
能力を発動させた彼は、そしてそっと耳に手を当てる。音に注力するような様相であった。


「………………………………そう」


至極平坦にそう呟くと、ツグミはそっと目を閉じた。
彼の能力は身体強化の一種で、「五感のバランスを操作する」ことが出来る。
例えば今のように、耳——聴覚に注力した場合などは、他の感覚をシャットダウンし、そこに当てられている力を聴覚に回すことが出来るのだ。バランスを変えることで感覚に一極集中し、常人以上の力を発揮することが出来る。
この時ツグミは、聴覚以外の一切の間隔を断ち切って、感覚に割かれる力を全て聴覚へと回していた。
何が聞こえるのか、どこまで聞こえるのか——感覚というものは個人特有のものであり、それを言葉にして聞き出すには、その者の定めた基準も共有しておく必要がある。その共有という行程において、ツグミは自分から何かを発信することが無かったものだから、例えば常人では聞き取れないようなものを聞いていたとしても、それを聞き出すことはとにかく難しかった。
ともかく、何かを聞き取ったツグミはそれに向かってなのか、それとも違うものに向けてなのか——平坦な声で一言そっけない返答を繰り返していた。
普通の人間ならば愛想がない変な人間、と映るところが、ツグミが一人でそれを行っているのは異様な光景だった。
人間である彼が人ならざるものの声を聞いている。
それも、一人の時に——一見すると、自らの意思のようにも見える。
凪いだ水面に阻まれて決して表面化することのない意思の力なのだろうか。

「………………………………わかった…………」


ツグミは最後にそう呟くと、その能力の発動を止めた。緊張の糸が切れたように息が荒くなる。
屋敷に隣接する森から、けたたましい鳥の鳴き声がしていた。それも、膜で隔離されたような音ではなく鮮明に。
ユーグが浴室のドアを開けるとほぼ同時に、窓の外から何かが羽ばたく羽音がしたことに、ユーグは勿論ツグミも気づくことはなかった。

自らの服を叩き、汚れをあらかた落とすとツグミの頭や顔を撫でた。……砂にまみれている。