「………………」

大きな洗い桶にたっぷりと張った水。
小脇に抱えたのは、すっかり汚れた大量の衣服。
イリスは今からしようとすることを思い、少しだけ冒険小説への情熱が薄れたような気がして小さなため息をついた。

「書かないわよね……それは、当然」

洗濯のシーンなど今まで読んだ作り物の冒険記には全く出てきた覚えがイリスにはない。
それもそうだ、そんなシーンをいちいち挿入して読者が喜ぶとは思えなかった。
冒険という物に密かに強く憧れを覚えていたイリスの前には、冒険記には決して書かれない一つ、生きていく上では避けられないであろう洗濯物という現実が立ちはだかっていた。
さすがに数日、この真夏に替えの服がないから仕方なく着の身着のままでいただけあって、少々ひどい香りがする。
汗と土とついでに戦ったばかりのエビやら魚やらの変な体液にまみれた服。
たっぷり三人分だ。

「おっせんたくー♪　おっせんたくー♪　イリス、石鹸持ってきたよー。準備おっけー？」
「えぇ。さっさと洗ってしまいましょう」

洗濯自体は従者にきちんと教えてもらってひと通り出来る程度には身に着けている。
地面に敷いた布の上に服を山と置き、イリスは早速一枚ずつ洗濯物を片付けに掛かった。


メルンテーゼにはあちこちに村がある。村から村へ、侵攻をしながらも渡り歩ける程度には。
ここ水辺のそばにある村もそんな数ある村の一つで、名をキアナと言った。
王城から何らかの侵略行為などは一切ないという。少なくともそんな話は他の村でもまだ聞いたことがないと村の長は話していた。

村自体もこの反乱には好意的であり、王城にとっては残していても一見何の得も無いように見える。
そこまで考えてイリスはひとつの可能性に思い当たった。

既にイリス達は一度王城の兵士と刃を交えてきている。
その実力の高さに、あの時は舌を巻いたものだ。

「イリス？」
「えっ？」
「手、止まってるよ。……疲れてる？」

マオに指摘され、イリスは手を止めて考えこんでしまっていたのにそこで初めて気がついた。
数日とはいえ経験してきたこと、そうして見えてきた課題、思うところが多すぎてつい考えに耽ってしまっていたようだ。
疲れもマオの言うとおり。
不利な戦いを何とか切り抜けたのはつい数時間前、その疲れは今どっとイリスにのしかかっている。
おそらくマオも心配の言葉をかけているが自分自身も疲労困憊に違いなかった。
全員死力を尽くして戦ったのだから。

「……少しね。でも、洗い物はちゃんと済ませるわ。あたしが言い出したことだもの。マオにだけさせるわけにはいかない」
「無理しちゃだめだよ〜」
「うん。ありがとう。洗い終わって、全部干したら夕飯までお休みするわ」
「あ、いいねー。私もそうしよっかなぁ」

改めてじゃぶじゃぶと水音を立て、石鹸を泡立て服を洗う。
自分の服はあらかた終わり——下着に落ちない汚れができてなかったことにほっと安堵の溜息を漏らしたのは、内緒——仲間の服へと手をかけて、ふとイリスは思い出した。

——い、いや私はいいよ。後で一人で洗うさ、イリスさん達の手を煩わせるわけには。
——どうせ洗うのだから纏めての方が手間もかからないし、ロイが後で一人で疲れる事にもならないと思うのだけど……。それに、日差しのいい今に干さないとダメよ。
——それはわかるんだが……。

替えの服がないロイは、村で一番安かった麻のローブを纏って今頃はベッドの上でのんびりしていることだろう。
イリスとマオは今日の朝仕立て上がったばかりの服（ロイの手作りだ）を着て洗濯に励んでいる。
アエレアはというと

「光学迷彩に洗浄の必要はありません」

と、言うことらしい。
“コウガクメイサイ”というのがなにかわからないが、確かにアエレアの服だけはあれだけの日数や戦闘を経てきたはずなのに汚れはおろかシワひとつない。
汗の香りも当然のように無く、この暑いのにアエレアの肌は触るとひんやりと冷たかった。

空を眺めるアエレアを見てイリスは密かに思った。
無論人外だからといってイリスにとっては大した意味は無い。
確かに初めて目にする存在かもしれないが、アエレアは仲間なのだ。共に戦い、苦楽を共にする。
そして何も知らない、赤子と形容してもいいぐらいの無知な彼女を放っておくことなどイリスにはできなかった。
何も知らないゆえ、何にでも染まるであろう可能性をイリスは直感していた。
一歩間違えれば恐るべき魔物と化してしまう、危険性を確信していた。

「空、綺麗ね」
「はい」

声をかけて数秒の間を開けて、視線をこちらによこすことのないままの返事が帰ってくる。
だが今はそれで良い。
何も知らないゆ、何にでも戸惑っているのだろうと、イリスは考えながら服を洗い続けた。
今手にしているのは男物の下着、ロイのものだ。

「やっぱり、ロイには悪かったかしら」
「んー？　なにが？」
「すごく遠慮してたから……。やっぱり、異性に服を洗ってもらうのは、恥ずかしいのかしら、って」
「あー。すごい勢いで遠慮してたもんねぇ」

なかなかロイが首を縦に振らなかったのを思い出す。
最後は観念して服を渡してくれたが、始終申し訳無さそうな顔をしていたのがイリスの記憶によく残っていた。

「まぁ慣れてもらうしかっ。っていうか、ロイにも新しい服はすぐできるだろうし、そうしたらみんなでお洗濯できるね！」
「えぇ。あんまり気にしないことにするわ」

男物の下着をぱっと広げて、満足行くまで洗ったのを確認し、イリスは微笑んだ。

金髪の少女が真っ直ぐな視線を向けて出て来ました

ぼうっと、何かを考えるようにしたあと

そう言って、頭を下げました

握っていた手を離して、嬉しそうに笑う。
イリスの上品なそれとは違い、まるで子供のような無邪気な笑みだ。

遠くを見つめる少女の姿をした仲間に視線を送る。

そっと目を閉じて耳を澄ます。ピコピコと動くねこみみは
イリスには聞こえない何かを聞き取っているのだろうか。

イリスから視線をはずし、宙を舞う精霊に手を振って
少女の不安を吹き飛ばすような声で伝える。

蒲公英から服を造る作業を止めて顔を向けて、小さく微笑を浮かべる。
少しほっとしたような様子だ。

小声で一言加えつつ、言葉を続ける。

そう言って微笑み、再び作業を再開した。裁縫道具を使い、ちくちくと針を通していく…