獣の遠吠えに気付いたのは夕餉の少し前。
それは果たして、聲と呼べるものであっただろうか。


エンブリオ契約を結んだばかりのセイレーンが「夜」を見上げて歌っていた。
ふと見やれば、先ほどまで賑やかしかった同行者の面々も
就寝したのか物思いにふけっているのか、口を閉ざして随分と静かになっている。
頬を撫でた風に誘われるように、物音を立てず立ち上がると
幼子に寄り添うように寝そべっていた黒狼もまたその傍を離れ歩き寄ってきた。

「お前にも聞こえるか、ニグラ」

そう問いかける男は薄く笑っていた。聞くまでもないが、と。
己の見聞きしたものをこの黒狼が知らぬはずはないし、
また黒狼の見聞きした事を己が知らぬはずもなかった。

「知らねぇ声だ　だが懐かしい」

低く囁く。
夜は暗く静かなまま、セイレーンが歌っている。
あの歌は、契約者である自分にだけ聞こえるのだろうか？
そこに居ろ、とセイレーンへ指示を出すと狼を伴ってその場を離れた。
起きている者も居たであろうが、見張りに立つと思ったのか掛かる声も無く。
ふらり、と歩き出す。


聲がする。奴等は「夜」を咆えている。


「…こんな夜に、何を、誰を、呼んでるってんだ」
独り言ちて、くつくつ笑う。
こんな夜、とは言うが彼らにとっては“よい夜”なのかもしれない。

獣が咆える。人のそれとは思えぬ声で遠く遠くへ咆えた。
返る声は無い。
だがそう時間を置かず、あの遠吠えの主とは顔を合わせる事になるだろう。


世界の認識の境が緩む。
侵食が侵食を食い、境界が曖昧になる。

“俺は今、どちらに立っているのだろう？”

その答えに、けれど何の意味も見出せないまま。

ねむそうな顔でゆっくり歩いてくる