そもそもとしての一歩が大きい割に動きの俊敏さは普通の狼そのものだから、短い間にかなりの距離を移動できる。
　更には全力疾走でもしない限りは一昼夜を休まず走ることができるから、本気で距離を稼ごうと思えばずいぶん遠くへ行くことができた。
　それは例えクローシェを乗せていても変わることはなく、フォルカーを乗せていたとしても馬より早い。

＊＊＊

　フォルカーがクーの脚を使うことを判断したのは、一同が脚を止めたときのことだった。
　クローシェにとっては広い庭を進むことにもいい加減参っていたときのことでもある。何せクローシェの生まれは雪深い森の中であり、遮るものの無い夏の日差しには今の今まで縁が無かったもので。
　—— 一行が脚を止めてすぐから、フォルカーはサラマンと何事か話し込んでいた。背の高いフォルカーが地べたに座り込んでいるにも関わらず、サラマンは小さな二本足でしっかりした姿勢で立っている。
　サラマンはどちらかといえばずんぐりむっくりした体型をしているが、こういうときの彼（だと思う）は妙にしゅっとして少し細く見えた。
　そんなサラマンはどこかから程良い太さの枝を調達して来ていて、殆ど全身を使うような按配で地面に図形を描いている。その図形が地図であることは、フォルカーの口にする言葉の端々からなんとなく窺うことができた。
「——それじゃあ、ここを真っ直ぐ行く以外にもいくつかルートがあるんだな？」
　サラマンが手、もとい全身の動きを止めたとき、フォルカーはそう尋ねた。応じて小さな火蜥蜴は小さくうなずくと、言葉の代わりに尾の先を使って地図の一角を示す。
「星屑の川。そこでよくないか」
　フォルカーがそう口にすると、すかさずサラマンは首を横に振った。それから少し離れた位置にいるチャチャカの方へ鼻先を向ける。
　ついで改めて地面に向き直り、いくつかの文字を並べて、枝の先でとんとん叩いた。
「レモラ。マーメイド。龍魚。…………」
　フォルカーが唱える言葉に合わせて、サラマンはいくつかの文字の横に×印をつけていく。どうやらサラマンが書いた文字は、この先に生息しているモンスターやエンブリオの名前のようだった。
「……兵士？」
　最後に並んだ文字を見て、フォルカーが軽く目を瞠る。サラマンは肩を竦めて、ペン代わりの棒を下から上へ振る動作をした。
「それってひょっとして、サボってる奴に出くわす可能性があるってことか？」
　サラマンはうなずいた。
「そうか。で、×の奴はチャチャカの相性が悪い、と」
　再びサラマンはうなずいて、地図の反対側に回り込んだ。ずりずり枝を引っ張って、先の部分で綺麗な線を描く。
　その行く先は、
「護りの森」
　今度こそサラマンは満足げにうなずいた。フォルカーもそれにうなずき返し、手元の紙へと地面の図を写してから、軽く頭を下げる。
　それを見届けて、サラマンは小さな絵を足元に描き加えた。ピクシー、と更に小さな文字で名前も添えて。
「そいつはあんまり危なくないってことか？」
　うなずく代わり、サラマンはポンチョの裾を揺らした。
　風の使い手だから、風に護られているものに苦労は無いはず。どうやら、そんなことを言っているらしかった。

＊＊＊

　話が決まれば、クーはすぐに走り出すことになった。
　彼は、彼の主人であるフォルカーが言うことに対して、それがクローシェのためである場合に意を唱えることは稀である。
　ふわふわと頼り無いほど細い毛が密集して生えた毛皮を掴み、フォルカーに足を押し上げてもらってクーの背中へ登る。見下ろした庭の景色はうんと遠くまで続いていて、後数日は歩かなければ、目的地へ着きそうに無かった。
「なら、だいじょうぶそうなら向こうの方からこいつを遣いにやる」
　クーの足元に佇んだサラマンにそう声を掛けてから、フォルカーも大きな手でクーの毛並みを掴む。
「チャチャカも怪我はしないようにな。サラマンは怪我の治せるエンブリオじゃないんだから」
「わかってら。気をつけてな！」
　最後にチャチャカと何度も繰り返したやり取りをして、掴んだ毛並みを頼ってクーの背中へ登る。
　背中へ乗ってしまえば、フォルカーにとって後は慣れたことだ。クローシェの前に回した手で手綱代わりに首周りの毛並みを軽く掴み、動き始めて構わない意を言葉無く伝える。
　途端にクーは迷い無く鼻先を本来とは別の目的地へ向け、四本足で駆け出した。駆け出す刹那の揺れは少なく、どの足が地面を蹴っても大きく彼の体が上下することは無い。
　——クーは早いだけではなく、音も無く滑るように地を駆けることができるのだった。障害物を越えるときなどに至っては、滑らかに飛ぶような足取りで跳躍してみせさえする。
「次を右に」
　目印となる岩を見つけたフォルカーがそう声を掛けると、クーは速度をさして緩めるでもなく、けれどもあくまで滑らかに、岩にぶつかりそうなほど近くで方向を転換した。
　乗っている側からするとひやりとする動きだが、彼はこういうときでも決して騎乗者を落とさない。そのために役立っているのが彼のふんわりした尾っぽで、これは大体舵のような役目を果たす。
　フォルカーに言われるまま道を進めば、クーの体はすぐ水辺へと行き着いた。フォルカーが覗き込んだ地図をいっしょに覗いてみるに、星屑の川と呼ばれる場所であるようだった。水面を渡った風が冷たい。
「とりあえず、この辺で一休みしようか」
　言いつつフォルカーは先んじてクーの背中を降りる。両手を広げてくれたから、クローシェも素直にその中へ飛び降りた。
　受け止めてくれる養父の体は、胸も腕も、相変わらずがっちりと硬い。
「今日のおやつは？」
「ミルクゼリー」
「ミルクゼリー！」
　フォルカーの作るミルクゼリーはこだわりの一品だ。
　甘みはしっかりと、けれども練乳ほどは甘くせず、固める硬さも他の乳製品とは変わるように作る。全体的な出来上がりはゼリー特有の繊細さより、駄菓子に似た素朴さを強く感じさせた。
　ガラスの器に入れて固められたミルクゼリーは、器に入っている限りは震えたりはしない。
　スプーンで掬い上げて初めて、ふるふるほんの少し震える。
　口にするとミルクの風味とバニラの香りがするりと喉を滑り落ちて行って、暑さに倦んだような身体に心地好かった。身体の中も外も、ようやく涼しさを実感したような気分だった。
「夜なら酒でも飲みたいところだったな」
　フォルカーはそう言って笑う。
　クローシェには十分な大きさのゼリーの器は、彼の手の中にあると見るからに小さかった。器に舌だけを突っ込んでいるクーには不足していることが明白で、クローシェはちょっと考えてからひとさじだけクーの器にミルクゼリーを足してやる。
「ちょうどいいし、夕飯の用意もしていくか」
「じゃあ、薪拾って来る！」
　余り遠くへ行かないように、と声は背後から掛かって来る。
　どっかり横になったクーが面倒臭そうに頭を上げる気配があったが、彼がついて来るようなことはなかった。
　——ひとりになってしまえばクローシェは身軽だ。
　小さい分小回りが効くから、大人ほど早く歩けなくても、行動できる面積はそう狭くはない。
　そうしててってけ河原を歩く。
　きらきら煌く川の中には、青い魚の他に綺麗な人魚が泳いでいて、クローシェが手を振ると気まぐれに手を振り返してくれることもあった。
　その内後ろの方からちょこまかした足取りで二本足の猫がどこからか現れて、黙ってクローシェの後ろを歩き始める。彼はケット・シーと呼ばれるエンブリオの一種で、元はといえばクローシェがクーに黙って持ち出したネクターを与えて契約した、要するに猫だ。エンブリオであっても猫は猫なのである。
　たま、と名付けられたケット・シーは、クローシェが走ると自分も走ってついて来る。
「お父さんについて行けって言われたの？」
　と尋ねても、たまは特に答えなかった。ただ黙々とついて来る——のだが、別に当人は薪を拾う訳でもない。お目付け役の心算なのだろう。
「お手伝いしない子はご飯もらえないんだよ」
　言いつつ、クローシェは拾った薪をたまの小さな手に押し付ける。
　たまは黙ってそれを抱えた。抱えるその手は明らかな《ねこのて》で、よく考えると、薪を拾い上げるような器用な動作はできそうになかった。
　なるほどこれは薪を持たせるにはよさそうだと判じて、クローシェは拾った薪をどんどんたまの手に押し付ける。
　たまは大人しく薪を抱える。いっぱいになったところで、適当な蔓草を毟って薪を括り、たまの背中に括ってやった。
　——それから更に薪をもう一抱え作ろうと薪を拾い集める作業を始めたところで、ふとクローシェの手は黒くて硬いものを掴んだ。
　黒くて硬い、トゲトゲしたもの。持ち上げてみると長い。
　その先を辿るまでもなく、ちょっと顔を上げれば、全体的にトゲトゲした生き物が川辺に横たわっているのが見えた。
「トカゲだ」
　クローシェが口にすると、たまはわずかに顔を顰めた。
　眼前にいるのはトゲトゲした大きなトカゲのようだったが、確かにその背中には普通のトカゲには無いものがある。ならば、
「ハネトカゲ」
　たまは首を横に振った。彼に何の不満があるかは知らないが、クローシェが尻尾を捕まえたのは、大きな大きなトカゲに違いなかった。その背中に皮膜のような翼を折り畳んだ、ハネトカゲだ。
「ハネトカゲつかまえて帰ろう」
　捕まえてどうするんだ、とでも言いたげに、たまは片目を眇める。
　クローシェはハネトカゲの尻尾を両手で触って掴みやすそうな位置を探り当て、そこをしっかり掴んでから改めてハネトカゲの姿を見た。
「クーちゃん、《ハラカラ》がいなくてさびしそうだからね。飼って、お友だちにするの」
「にゃあ」
　ここに来て、ケット・シーはようやく鳴き声を出した。
　何が《ハラカラ》だと言わんばかりだった。
　応じてクローシェは小さく笑う。
「たまちゃんは知らないと思うけど、」
　《ハラカラ》は《同胞》だ。同じ母親から生まれた兄弟か、或いは、
「クーちゃんはね、悪魔だから、《竜》なんだよ」
　同じ民を指す言葉であることを、クローシェは確かに知っていた。

　悪魔についての知識は少ないが、もっと歪で恐ろしい存在と考えていたが。その様な事を考えながら、そっぽを向いた狼を眺めた。
　しかしながら、次に人間の子供の発した言葉に、トカゲは背筋は凍り付く。

　残酷な！　なんと残酷な！

　食われていったトカゲ達を哀れんだ、切なるトカゲの願いだった。

　別に早さにびっくりした訳ではないだろうが、感嘆の溜め息を漏らす小娘一匹。

それを「すごいもの」の前で言って良いのでしょうか……

悪い気がしない、と言われれば嬉しいのは自分も同じ。
だから、嬉しそうに笑う。

聞こえた声に、あら、と首を傾げ。
もしかして、と狼をじい、と見る。
けれどその後に聞こえたのは普通の鳴き声…

狼って、「わん」って泣きました？

不思議な出会いに感謝しつつ、手を振って一人と一匹を見送った。

恐らく、声と訛りから判断したのだろう。更に一歩近づいて柔らかく笑いかけると、今度はちゃんと狼の言葉を話そうと口を開きかけて——後ろから人間の子供が出てきたことに気がついた。

正直、狼が出てきた時よりも大きく驚愕し、文字通り飛び上がらんばかりの勢いで後ずさり、ちょっと前に出てこようとしていた羊にぶつかって、止まる。