人にいくつかの側面があるように天使にもいくつかの側面がある。天使、少なくともメルンテーゼ現地に天使と呼ばれるこのエンブリオにも。天使の枝分かれする職能や階級は神話の記述や解釈によってあまりに異なるので、人は一般にこれをもう少し取り扱いの用意な現実性のあなかで——博物学的な図譜の上で二分する。つまり、物の理に則った力を補強するものと、魔の法に則った力を補強するものに。それらは同じひとつのものが契約の形態によって枝分かれしたものと捉えられるが、一方で現象として立ち現れるエンブリオ契約の効能——行使される異能も術者の肉体の伸展もあまりに異なるため、ほとんど別様の二者として解釈する向きもある。

私の左手に巣食う天使とネクターを対価に昨夜結んだもうひとつの契約、俗に魔法契約と呼ばれるそれは、天使の営為として執行される事柄を思うならいくらかはより「らしい」ものだった。癒やしの奇蹟……人が神的な偉大者に対して求めるいくつかの実利のうちでも最も一般的なもののひとつと、その側面は結びついている。

物の理に於いて天使は、物の理の通りに事物を破壊し、あるいは破壊から防ぐ力能をもたらした。破壊あるいは防御は連続的な・物理的な時間のなかに身を置く行為だ。力によって物象は破壊され、力によって力は防がれる。破壊や防御は力を原因として持ち、力はその力自らが生まれる原因を持つ。因果関係は最初の動因へ向けて正しく遡及される。しかし魔法においては……魔の法に於いては逆さまに、事物、狭くは肉体を癒やす力が現象する。人の肉体には傷痍を癒やす機能が内在している。しかしそれはゆっくりとした組織の再生、失われたものを代補するなにものかのそのつど新たな作り直しであり、そつまり即効性を持たない。失われたものを作り直すには作り直す原料がなくてはならず、作り直す時間もなくてはならない。魔法契約された天使はこの物理を逸脱させ、速やかに創傷を無化する。逸脱の迂回路は天使の個体ごとに異なるのだろう、再生すべき組織を霊的に形成するものも、混入された毒素を浄化（と云う名の攻撃により排除）するものも、論理的には無理なく想像できる。私の場合は？　私の天使の「魔法」の場合、その「速やかな癒やし」という物理の逸脱は、どうやら最も信じがたい迂回路を……つまり、「過去を選択的に再現する」という道筋を辿るように思われた。

傷を癒やす時、そこには「傷の癒えた身体」が、100パーセントの瑕疵なき身体がまず前提されている。傷が癒える時、なにが傷であるのか、傷をどうした方向へ向けて処理することが癒えるということなのか、という定義がなくはならない。人に翼はなく、角はなく、指は五本しかなく、髪や爪は成長のなかで幾度も切除され、臍に至っては切断された傷痕を外部へ向けてさらしている。これをあるべきものの欠落として捉えるなら、癒やしの奇蹟は翼をもたらし、角を生み出し、指を幾本も生やし、爪髪を群茂させ、臍の緒を再生せねばなるまい。一般にこの再生は癒やしとして正しくない。しかし翼の再生は個別的には正しいこともある（翼の切除された人類もいるだろう）。角の再生もまた同じ理路で正当化され得る。これらの問題を処理しながら、生きる上で適切な切除を再生しないままに傷を癒やすという困難を、どうやら天使は「個別的な過去を参照する」という手法で解決したらしい。傷は種に固有のものではなく、個体に固有のものだ。人間に話を限ったところで、六本指で生まれて指を切除された赤子もある。世には本来翼を持つ種でないにもかかわらず翼を持って生まれ、翼を切除された者もあるだろう。それは多くの場合医療行為だ（時には私刑でもあるだろう）。社会性は個体を種の正しさに適うよう治療する。しかし、癒やしの奇蹟は、個体の正しさただひとつを論拠として個体を治療する。個体の正しさ、個体の本来性は、個体の個別的な過去にしかない。ゆえに天使は過去を参照し、過去を再現する。失われる以前のものを現代という舞台に再び引きずり出して……そして癒やしの奇蹟に求められる選択制は、つまり何を癒やし何を癒やさないかという社会性は、契約者、奇蹟それ自体の実際的な行使者に委ねた。私のエンブリオは、どうやら彼もしくは彼女の宿る、左手で触れた場所のみを過去の姿へと癒やす。髪ならば伸び、爪ならば生えるだろう……失血は取り返されるだろう、裂け目は裂け目以前に還るだろう。いや、実情はわからない。時は未来へ向けてしか進まないという物理の大法則を、本当にただのいちエンブリオが無化できるものなのかどうかは。それは擬制であるかもしれない。過去を再現するふりをしながら、実のところ未来へしか流れていかない時に合わせて、そのたびごとに過去の衣裳で古びた芝居を繰り返しているばかりなのかもしれない。

過去を参照するということは、参照されるべき過去がどこかに保存されているということだ……そうした妄想の浮かばないこともない。例えば時の流れるのに合わせて世界から失われたすべてが、アルシーヴとして保存され眠っている巨大な書庫、それとも納骨堂、エンブリオはそのアルシーヴを覗いて過去を参照し、癒やす者のかつての姿、かくあるべき姿を見出し、その姿へ向けて癒やしを行使する。……

物理を逸脱した法則の力学を考えようとすれば、勢いそれは突拍子もないものになる。それは楽しくもあるが、詮ないことでもある。私に今大切であるのは、この左手に傷を癒やせるということばかりだ。仲間の傷も。私自らの傷も。レルヴォヴェールの迷信にこうした回復魔法と呼ばれる魔法の在り方は強く忌避される。理を無視して癒やされた傷は、いつかより取り返しのつかない深手として回帰するのだと……しかしそれも私には無理な天秤に思えてならない。物理の因果を無視する以上は、別の因果に縛られなくては平衡が悪いというくらいの事柄だ。そうでなければさまざまな異世界にあれほど回復魔法の蔓延するわけがあるだろうか？

過去。しかしなぜ過去なのだろう。ルヴナンもそうだった。私とともにある天使も。私の周りの事象は過去という鍵語にひどく縛られている。それは啓示的であり不快でもある。フィガロは《止まる》と云う言葉をよく口にする。戦いのさなかに。それはあいつが流れるものを芯では恐れているせいだろう。私にも口癖はあるだろう。その口癖は恐らく私を縛るなにかと骨絡みになっている。過去と、それは関わっているだろう。私のエンブリオが私の過去と不可分であるように。私の……そして私の母の。

広い庭園の一角でふとすれ違う相手に目を奪われる。

それでもキラキラと頬を微かに赤らめながらしばらくじっとその背中を見つめていた。

目を伏せて微笑んだ