グレイ＝ヴォルフは羊飼いである。

　黒みがかった灰髪を持つ、小柄な老人である。
　彼は"風鳴りの丘"の広大な台地を巡って周り、羊の放牧を主な仕事としている。その仕事振りは熟練者のそれであり、彼の育てた羊たちは、その羊毛、肉の品質共に高い評価を得ている。

　彼の技能の中でも、まるで羊たちの声を完全に理解しているようだとの声は、同業者の中では名高い物である。実際に、彼に羊達の問題を訊ね、解決策を求めた者達は、彼が羊達と会話をしている様を見たという。

　彼は"風鳴りの丘"を縄張りとする羊飼い達の中でも特に古株だ。何十年も前から同じ場所で、ずっとこの稼業に勤しんでいるとも噂されている。
　年齢としてはあり得ない噂ではあるが、それだけの老成した雰囲気をその羊飼いからは感じさせるのだ。




　グレイ＝ヴォルフは狩人であった。

　かつて彼は仲間たちとこの地、"風鳴りの丘"に巡り付き、この地に住まう凶暴な動物や獣たちを追い払った。外敵の中には知恵のある獣や、悪しき魔術を行う"ニンゲン"達もいたと言うが、それらも全て征伐するか、追放したのである。

　"風鳴りの丘"が、今や葡萄の一大産地となり、寒冷だが肥沃で平穏な地として栄えるようになった基盤を、彼と同胞たちは築いたと言えるだろう。
　今では彼の仲間たちも一人去り二人去り、最終的に、過去の話を知る者は彼一人となってしまっている。しかし、彼らの行った功績は、今もなお村々に伝承や伝説として語り継がれている。




　グレイ＝ヴォルフは悩んでいた。

　彼の悩みの種は、彼の孫娘のことである。
　つい先日に戴冠した新王と、彼の発したネクターの独占令。
　そして、その後の各地での暴動による羊達の脱走も彼にとっては問題事ではあった。しかし、それよりも孫娘についてが、彼の心を悩ませる。

　素行が悪いなどの問題があるわけでは、全くない。

　むしろ、やや生真面目に過ぎるが性根の真っ直ぐに育った、自慢の孫と言える。羊飼いとしてはまだ経験不足ではあるが、それを補うだけの向上心と、羊達への誠実さが感じられ、何処へ出しても恥ずかしく無いと彼は思っている位だ。
　彼の事を『じぃじ』と呼び、慕ってくれるその姿を見、彼女を立派に育て上げなければ、という気持ちが湧いてくる。

　しかし、彼女を取り巻く環境は、というと、必ずしも彼女には優しくない。
　そもそもグレイが羊飼いという職を選び——選ばざるを得なかった理由も、彼や孫娘の抱えている出自や問題に由来する。
　結局のところ、彼らは人々から隠れるようにして住まなければならず、また人で溢れかえるようになった"風鳴りの丘"が彼らにとって住み難い地となってしまった事も必然と言えたのであった。






　グレイ＝ヴォルフは人狼である。
　そして、彼の孫娘も、また。




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　数十年の間羊飼いとして、またそれより長い間、狩猟者として獣や動物達を追い払った経験を持つグレイであったが（当然、その中には知恵を持つ魔獣も多数いた）その彼をしても、目の前に現れたイキモノが一体何なのか、判断が付かなかった。


　遥か昔に野盗の一味を追い払った後、朽ちるままにしていた洞窟から現れたのは、見た目はただの黒山羊であった。

　髭も角もそこまで成長していない、ただの仔山羊のように見える。
　ゆっくりとした足取りで洞窟から出てきているそれは、体色こそやや不吉さを感じさせるが、どこにでもいる黒山羊の姿であろう。
　しかし、グレイの直観が、それがただの黒山羊で無いと——否、ただの生物でないと告げていた。
　そのイキモノの瞳に浮かぶ知性の色と、その影の不自然極まりない動き方を、グレイの視界は十分に捉えている。



　黒山羊は、グレイの姿を捕らえると軽く、本当に軽く会釈をしてみせ、メェメェと鳴いて見せる。



　グレイにはその声が、『ハジメマシテ』と言っているように聞こえた。

いつのまにか、何かを咥えている。