妙なる調べが響いている。

トラメンストルの山肌は、その淡紅色も相まって、ふくよかな女性の身体の様にも見える。
母なる山、霊峰トラメンストル。聖霊の降りた奇跡の地。人々の祈りの行き着く場所、聖処女の佇む魂の寝床。
その懐であらゆる恵みを享受して育ったカミユにとって、トラメンストルは紛れもなく母であり、その山肌は愛しい母の腕だった。

しかし時に、母は子を試す。恐ろしい残虐性を以て。
乾いた空気。灼けつく陽光。それが去った後の寒さ。その都度水筒を満たし続けた水の流れは、ずいぶんと前にカミユの手の届かぬ断崖の向こうへと消えてしまった。形もまばらな石段をいくつも越え、すり減った靴底に感じる砂の山道はいやに乾いてざらざらと硬く、霞んだ視界の果てに母の腕は遠い。

…

妙なる調べが、響いている。途切れ途切れに。

乾いた風の音。山道の脇、もはや打ち捨てられたような十字架の首の、いつ架けられたかも知れぬ乾いた花環、それが立てる、泣き声にもにたかさかさいう音。右、左、中央、右…やや遅れて、また左、更に遅れて、中央。今にも打ち崩れそうな歩み、砂を踏む、引きずる足の、それを支える杖の音。遠くで軽やかに鳴く鳥の声音、そして自身の喉を行き来する乾いた呼吸の音。音。音。それらすべての痛ましい音を掻き消して、懸命にあやす子守唄のように。調べは響いた。

カミユにはもはや、自分がどこを歩いているのか、今日は村を出て何日目になるのか、まったく判断がつかなかった。
休み休みに山を降り続け、水筒は空、保存食は乾いたパンくずが僅かに残るばかりである。


やがて、調べは途絶えた。途端、カミユの膝が折れた。
これまでに限界をとうに過ぎたカミユの足が動き続けたのは、脳裏に響く妙なる調べが、カミユの心身を癒してきたためだ。
柔らかな膜のような支えを失って、カミユの身体はあえなく乾いた山道に崩れ落ちた。手から離れた杖が、侘しげな音を立ててその場を弾む。

うつ伏せに倒れ、浅く乾いた呼吸を繰り返すカミユの身体の側で、仄かな光が頼りなく明滅を繰り返す。
そこから開く三対の翼。金色の瞳。質量を持たない光の眷属、天使と呼ばれるもの。

ルー、自らをルーアハと称したその天使は、アルームを出たカミユを正しく山の麓へ導いていた。
しかしメルンテーゼにおいてエンブリオに区分されるルーアハは、元来の天使や聖霊のような強い力を持つ訳ではない。
他の全てのエンブリオと同じく、力の行使には生命の花、ネクターを必要とする。

カミユの下げた赤い革の鞄からは、乾いたネクターの花がいくつか覗いていた。
しかしそれは捧げられなければ意味を持たない。カミユの手を介し、ルーアハに捧げられることによって、初めてそれはネクターとしての力を発揮する。しかしカミユの意識の朦朧とする今、その手は乾いた土の上に投げ出され、ネクターを手繰る気配さえ見せない。

カミユの鼻を、嗅ぎ慣れないにおいがよぎる。
それからほとんど間をおかず、カミユの肩下に硬い感触の何かが差し込まれた。わずかに身体が地面から浮き、がくり、カミユの首が揺らぐ。

そのまま身体をひっくり返され、うつ伏せていた顔が仰向けるとともに、カミユの瞳がわずかに開いた。

瞬間。

鋭い閃光が走った。きぃんという、金属同士の擦れ合うような、しかし美しい調べとともに。
素早い回転を伴って広がる三対の翼。敵意をもって開かれる金色の瞳。中空でゆっくりと上下するその姿の周りで、時折チリチリと空気の凍るようなはじけるような音が響く。稲妻、あるいは火花のような光を伴って。

カミユは自身の身体の前に濃い影が落ちているのを見た。その少し先、光に照らし出された灰色が見えた。爪先。布の流れ。それを上へと追って見上げたカミユの乾いた唇が、やがて何かを訴えようとわずかに開く。

ルーアハの視線、射るような金色のその先に、ふうーっとため息まじりに煙が吐き出される。
その煙が緩慢な動作で中空に解けきったころ、ようやっと男は口を開いた。

アルーム村…
トラメンストルの懐、聖霊の降りた村アルームは、聖地とされながら人の往来が非常に少ない。
険しい山越えにゆうに十日を要するアルームへの道のりは、文字通りの命懸けの旅となる。巡礼者、中でも切に何がしかの奇跡を求める者以外にそれを辿るものは極少ない。
しかし彼らが縋るようにして訪れたアルームには、美しい教会も、絵画も、聖遺物もない。ひたすら質素な村の中央に、なんの壮麗さもない小さな教会が、ネクターの花に彩られてあるのみで、ともすればそれは疲弊しきった巡礼者の一部…特に、麓の都市で荘厳な教会建築や金を使ったイコンを見慣れた者にとっては、期待外れともいえよう光景である。
そういった者たちのいくらかはもう一度気力を振り絞って山を降りもしたが、そうでない者たちは各々様々な理由でアルームに留まり、トラメンストルの懐でその一生を終えた。
そうしたことの繰り返しで「期待外れ」の噂だけが広がっていくと、それとともに巡礼者の数も減り、アルームは現在のような閉じた村となった。

前回、生き物を手にかけてしまったせいで若干テンションが低いようだ。

いつの間に現れたのか、カミユの背後に張り付いた天使が樹里のことをじっと見ている。

背後の天使に気づいているのかいないのか、特に気にした風もなく、
カミユは樹里から視線を外し、グレイマンとクリストファーの様子を気にしている。

声に振り返る。
グリゴリは少し驚いた様子だったが、問に頷く。

夜更かしさんとか、お寝坊さんとかね。
と、肩をすくめて溜息一つ。

それじゃコレは消して……っと。
等と言いつつ手早く懐から取り出した小さなメモに書き込みをしていく。

書かれているのは大根と南瓜、トマトが数個、レタスを一つ。
それに矢印で数キロあるはず！と引っ張ってある豚肉の文字が。

塊の豚肉は一口大にして下味つければ小麦粉まぶし。
下揚げは前回白身魚を揚げる為に使った油を再利用。
ピーマン、人参、筍、玉葱も食べやすい大きさに。野菜の下揚げは……暑いし省略。
フライパンで炒め、揚げた豚肉も戻し、黒酢や砂糖、お醤油で味付けをしたもののようです。