各所で一揆が勃発しているらしい。そういう噂が寒村にも届くようになってきた。
　だが、それらの噂にはすぐに鎮圧されて参加者はほとんど処刑されたという結果も付随していた。
「体制側がわざと流した噂なんだよ」
　教育を受けた農奴の一人がそう言う。教育を受けていない世代の農奴はいまいち納得できない顔だった。
「俺ぁ一揆なんて方法考えもしなかったが、そういう奴らが多かったら一揆もありなんだって教えちまう事になるんじゃねえのかい？」
「いや……」
　それまで会話に参加していなかったゴードが口を開く。
「そういう面もあるだろうが、それ以上に農家や商人のように守る家や家族、商売がある奴は尻ごむだろう。誰かが一揆だと声を上げても、失敗したら死ぬと解っていれば反対する奴は出るし、密告して保身を計る奴もいるだろう」
　大鎌を砥石で研ぎながら一同に目を向けずに言葉を続ける。
「分裂した状況でも行動力や正義感のある奴、追い詰められた奴や怒りに燃える奴は一揆を起こすだろう。だが、今のところは失敗して殺されている。つまり一揆を引っ張れる人材はどんどん減っていく」
　そこで言葉を止め、大鎌から一同に視線を移すとゆっくりと見回した。
「一揆を起こせる奴らが皆いなくなってから、更に暮らしが厳しくなったらどうする？　今以上にネクターを徴収されて、税を重くされたら皆飢え死にだ。だがその頃には俺たちも餓えて弱り切ってるし、引っ張ってくれる奴らはとっくに死んでる。俺たちが見殺しにしてな」
　農奴達の顔に恐怖が広がる。少し脅かしすぎたかと、ゴードは表情をゆるめた。
「まあ、俺は一揆が良いとは思わんがな。先王がどうなったのかは知らないが、新王の周りにも先王を支えてた人はいるんだろうし、新王の意図もわからん。ひょっとすると俺たちの知らないところで世界の危機が迫っていて、強力なエンブリオと契約するためにネクターが大量に必要なのかも知れないし、もしくは何かもっと世界を良くするためのネクターの活用法を思いついたのかも知れない。まあ、ただ贅沢しているだけかも知れないけどな」
　そう言って場を和ませると、喋りすぎたとばかりにまた大鎌に視線を落とした。
　世界を統べる王に反乱を起こしても何になるのかというのがゴードの正直な気持ちだった。
　主人のおかげで随分と良い暮らしをさせて貰っているが、それでも自分たちは所詮農奴の身だし、例え王を打倒出来たとしてもどうやって世界を統べるというのか。それはおとぎ話に聞く伝説の勇者や騎士や、彼らを陰ながら助ける善良な貴族がやるべき事で、自分がやるべき事は自由を買い戻すために黙々と働く事と、妹のように思っている主人の末娘の面倒を見ることだ。大鎌は作物を刈るためにあるのであって、人を傷つけるための道具ではない。

　　　　　　　　　　　＊

　秋が終わり、冬が近づいてきた。
　作物の不作はゴードが知る限り最悪の状態になっている。
　農場から少し下った寒村でも随分と死人が出ているらしい。エンブリオと契約できなくなったことによる生活環境の変化や作物の不作で、収入も減り食料も減り栄養も減るという悪循環に加えて、どうも病が流行っているようだ。
　それをどうにかするための薬を買う金も無ければ、病と寒さに耐える体力も残ってない者から順に力尽きているという話だった。
　農場には幸いにして備蓄があったが、主人はそれをある程度寒村に分け与えてしまった。
　これで農奴達の食事が悪くなるだけなら不満も出たかも知れないが、主人夫妻やその長男が率先して食事を減らしたため、誰からも文句は出なかった。むしろ、小さい子供達に今まで通りの食事をして貰うために自分から食事を減らす者が多いぐらいだった。これだけ農奴に慕われる主人というのも珍しいだろう。
　何でも、主人の祖父の代までは農奴にも厳しく、農場もここまで大きくなかったらしい。主人の父に代替わりした後にこの地方一帯で農奴の反乱が起きたが、主人の父は農奴の待遇を改善していた所だったので、農奴の中から反乱の企てを密告されて事前に反乱を防ぐと共に、首謀者を含めて誰も罰せず、より待遇を改善する方向に持っていったという。
　その結果、農奴の反乱で潰れた農場や、自分の主人を追い出したもののどうしたら良いのか解らなくなった近隣の農奴達から助けを求められ、手助けをしているうちにこの一帯の盟主のような立ち位置になってしまった。先王からも平和裏に事態を収拾した功績を認められて正式に潰れた農場の併合を許され、今のファードライ農場になったというのが元農奴の老小作人から聞いた話だった。
　流行病で病床にある老小作人は、一揆の噂が立った頃から血が騒ぐような事を言っていたので、ひょっとすると農奴の反乱に参加した一人だったのかも知れない。
「お前さんも、そろそろじゃないのかい」
　老小作人は脂汗を流しながらそう訊いてきたが、何を指しているのかがわからない。
「そろそろ自分を買い戻せるんじゃないのかい」
「ああ、それですか。次の給金でようやくです」
「亡くなったお袋さんの自由を買い戻してから自分とは、気骨があって良い。若いのに立派だ」
　あまり人を褒める事がない老小作人に褒められて、何ともむずがゆく居たたまれない。
「まあ儂もそろそろお迎えが来そうだから、お袋さんによろしく言っておこう」
　素直に笑って良いものやら困る老人特有の自分の死期を利用した冗談に、ゴードは逡巡してから素直に笑うことにした。もし本当に死後の世界があり、そこで母に会うことが出来るのならば、この老人に近況を伝えて貰えるとありがたいなという気持ちが確かにあったからだ。
　少し暖かくなった空気は、ゴードの名を叫びながら近づいてくる農奴仲間の声色で急激に冷え込んだ。
「ゴード、いるか！」
　小屋の扉がノックもなしに開け放たれる。
「お嬢が倒れた！　お前の名前を呼んでる、すぐ戻れ」
「！　爺様、すまない」
「儂に謝っとらんで急がんか！」
　声でゴードの背を押すが、叫んだ途端に咳き込んでしまったため、効果は十全とは言えなかった。後ろ髪を引かれる思いでゴードは駆け出す。寒村では流行病にかかった子供は誰も助かっていない。頬を伝う汗が冷たく感じる。
「いいかゴード、既に村と麓の町に馬をやっている、村の医者は今日中に、町の医者は明日にでも来るはずだ」
　村の子供が助かっていない時点で、村の医者は気休めでしかない。本命である町の医者が来るまでに、少しでも病状を悪化させないように粘って貰うだけだ。
「お嬢……！」
　血も繋がっていないし身分も違うが、実の妹のように面倒を見て可愛がってきた。
　彼女が初めて立ちあがったのは、主人夫妻の前ではなく、稲を纏めていた少年だった頃のゴードの前だった。驚いて固まったゴードの傍によたよたと歩み寄ると、その小さな手で伸ばし始めたばかりの顎髭を引っ張ったのだ。
　覚えている、今でも鮮明に覚えている。
　小さな手でゴードの短い顎髭を掴んだ瞬間転び、ゴードの膝でお腹を打って大泣きしたのだ。ゴードはゴードで、やっと大人達の真似をして伸ばし始めた髭を抜かれたショックと痛みで涙目になっており、騒ぎに駆けつけた奥方に上手く説明ができなかった。
　覚えているのだ。それは笑い話として語る思い出だ、決して過去を振り返るだけの思い出にしてはいけない。
　だが、彼には病を癒やす事などできない。できなかった。

　　　　　　　　　　　＊

　土を、かける。
　鼓動を止めた少女の上に、凍てついた土をかける。
　もはや笑うことのなくなった少女の上に、暖かさの欠片も無い凍てついた土をかける。

　　　　　　　　　　　＊

　暖炉で薪が弾けた。
　いつもなら農奴達の熱気に包まれて賑やかな給料日の昼だというのに、誰も口を開かない。
　聞こえるのは暖炉で薪が爆ぜる音と男達がすすり泣く声だった。
　扉が軋む音を立てた。憔悴しきった顔をした主人が使用人を引き連れて入ってきた。
「みんっ……みんな、世話になった」
　呼びかける声がかすれていた。徹夜で末娘の看病をした後、彼女を看取ってから泣き続けていたのだ。
「あの……ご主人、何もこんな日に……」
「そういうわけにはいかない。君達は一所懸命働いた、ならばその報酬を支払うべき日に支払うべき額を渡すのが私の役目だ」
　愛娘が死んだとしても、己を律して正しくあろうとする。だがその誇るべき主人の姿が、農奴達にはむしろつらかった。
　それぞれの給金が入った麻袋を順番に受け取っては、農奴達に手渡ししていく。繰り返される動作が、ゴードの前に来たとき、ふと止まった。
　主人の顔が直視できずにうつむいていたゴードがゆっくり顔を上げると、主人は懐から見覚えのある髪飾りを取り出した。今朝方亡くなったばかりの、あの少女がいつも付けていた髪飾りだった。
「今日できみは自由を買い戻せる。おめでとう」
　娘を失った親として、あまりに無理のある、絞り出すような祝福の言葉だった。
「娘がこの髪飾りをきみに持っていて欲しいと……」
　嗚咽が混じる。
「自由になるきみに無理強いはしないが、一緒に連れて行ってやってくれないか？」
　その言葉が切っ掛けだった。
　後にゴードはそう思うことになる。
　新王の圧政に対する憤怒、病気の少女一人救えない己の無力感、妹のように可愛がっていた少女が死んだ悲しみ、娘を亡くしたばかりの主人への同情心と尊敬の念、様々な思いが渦巻いて処理できなかった感情が、一つに集約したのはまさにこの時だった。
「……ご主人様、その給金を頂く前に少し王都へ行って来てもよろしいでしょうか？」
　意志のこもった瞳で主人を見据える。戸惑いながらも主人が頷くと、ゴードは主人が持っていた給金袋と髪飾りから、赤い六枚の花弁がついた髪飾りだけを受け取った。
　左耳の上に髪飾りを付ける。周囲の農奴達は、言わずともゴードが何をするつもりかを悟ったようだった。
「では俺の自由は、最後の忠節を果たしてから頂きます」

　　　　　　　　　　　＊

　少女の墓に一礼する。
「行ってくるよ」
　そう微笑んだ。それが最後の笑顔だと心に決めて。
　振り返ると、奥方と使用人が数歩後ろで見守っていた。
「ゴード……これを」
　そう言って奥方が差し出してきたのは、紅が入った薄石の入れ物だった。
「あなたのお母様から、あなたの一族は戦いに赴く前に化粧をすると聞きました。これをあなたに。我が家に伝わる……母親が娘の嫁入り前に渡す為の紅です」
　使うべき少女は、今はもう凍土の下にいる。数時間前までは暖かかったのに、熱すぎるほどの高熱にうなされていたのに、今はもう熱で苦しむこともない。
「母さんが……」
　思えばゴードの母も流行病で亡くなった。その時も農奴仲間や主人と奥方が泣いてくれた。
　ゴードはそっと手を伸ばすと、紅の入った薄石の入れ物を受け取った。受け取るとき、確かに奥方の指が震えているのを見た。気丈なふりをしていても、娘の死をまだ認めたくないのだ。
　小指で紅をすくい、目尻に赤い弧を描く。
　涙を怒りに変える、そういう意味がある戦化粧だと幼い頃に母に教わった。
「ゴード……あなたにこんな事を頼むのは——」
「必ず」
　奥方の言葉を遮ってゴードは短く復讐を約束した。少女に聞かせたくはない、そういう意図もあった。
「では、必ず。そしてきちんと帰ってきて、自由になりなさい」
　奥方はそう言って無理のある微笑を浮かべると、使用人から青いコートを受け取った。
「あなたが自由の身になった時に渡そうと、私や娘達で針を通していたものです。農奴達のコートと同じ物ですが、今のコートのまま旅立つよりは、あなたを守ってくれると思います」
　氷麦の茎を煮出して作った染料によって真っ青に染められたコートである。寒さと水や雪に強く、鎌を振る時に足を切らないように左側に牛皮を縫い付けてある。
　ふと、少女が左側についた牛皮について質問してきた事を思い出す。微笑みと涙が同時に浮かびかけたが、どちらも理性で押し込めた。
「行って参ります」
　ゴードは氷麦染めのコートを羽織ると、大鎌を持って墓所を出た。
　目指すは王都。
　新王の首を刈り取り、しかるべき報復を。
　凍土の農奴は灼熱の瞳を宿して旅立った。　

　ゴードは鎌の刃を研いでいる。