ある日庭の片隅で猫を見かけた。タカージュドールにも猫は居る。少し蒼灰の気配のある黒猫だった、彼女はそう思い出す。
王城の庭はいつもに増して広く、遠くで様々に——一揆に参加しているものたちの鬨の声がしている。死は身近にあった。いつの時も。この王への反旗よりも、もっとそば近くに、佇むように、己の身体の中に。鳥籠の中にいたときも、もっと強請ることに飽きるほどには、指先の上に。ゆっくりと未来に進むにつれ、確かに失っていく死の感覚、それが死ではないか、それを己は望んでいるのに。けれど、彼女は今再びその、平原に力を失い横たわる猫を見つめる。

あの日見かけた猫は、己に背を向けていた。癖のある黒の毛が規則的に揺れている。美しい木漏れ日、手入れの行き届いた芝生、いつもと変わらぬ抜ける様な青の空、箱庭の世界の中でその背は揺れる。彼女はふとそれに目を留め、一歩を踏んだ。猫は己に気付かない。気づいているのかも知れなくとも、逃げることはない。彼女は、少し小首をかしげるようにその猫の行動を見遣る。驚きで、彼女に瞳が開かれる。猫は小鳥を転がしていた。

先ほどまで首元につけた鈴を鳴らしながら彼女たちにぶつかってきた一匹の猫。考えろ、と言葉を放り投げたのはオルガだ。“飼い猫でいるのか、脱走兵 dromomaneとなるのか”。脱走兵。不思議な響きだ。彼女は、見下ろしながら考える。どこへ、逃げ出すのだろう。あるいはどこから。何に囚われている？

猫に転がされた小鳥は死に支配されていた。微かにその蝋燭は残っていたのかもしれずとも、蝋は全て液体から気体となって霧散しているように思われた。死。この鳥籠の世界で、もっともその静かなおしまい fin に側仕えする存在としてのエル。猫はその小鳥を揺らしていた。呼び戻す意志は感じられずとも、その行為は彼女がもうとうに諦め、そうして冷淡に見下ろし続けてきている、指先に止まる鳥を羽ばたかせるための小さな願いにも想われ、彼女は思わず窘めた、己の中の、その漠とした空想を。指に止まる小鳥。タカージュドールの女性が、彼女が、最も恐れる未来のひとつ。叩き落とそうとしても触れられず忌避の出来ない結末の香り。
猫はやがて、彼女に気付いたように振り返り、その黒灰の瞳を向けてただひとこと鳴いた。鳴き声は最早思い出せないのに確かに鳴いた。そして、己の庇護に在ったその小鳥を咥え、花の影に消えた。

翌日、彼女がその花の影を覗きこむと猫はおらず鳥も見当たらない。ただ、幾許かの羽毛と抜け落ちた一枚羽を、少しの赤い水滴が血に縫いとめていたのを見た。ああ、と思う。何が行われたのか悟るのとほぼ同時に、無性にその猫にもう一度会いたかった。抱き留めて、どんな味がしたのか、それは愛しさからくるものなのかを尋ね、くちづけて、そうして。どうなりたいのかはわからない。ただその瞬間、彼女は自覚する、己はその小鳥に羨望を抱いたのだ。

食べられる趣味も、それを想起したこともない。ただそこに残されていたものが、本当に僅かな、うつくしく光に照らされて鈍く光を湛える羽毛と翼の形見だけであったことが。ただそのことが、彼女の胸の中を真夏の嵐のように吹き荒らす、信じがたくそして、いつかは。いつかは、わたしも、と。あの猫にとって、死は忌避すべきものではなかったのか。不浄なものでも、避けがたいものでも。内臓を曝け出し脂肪を血に塗れさせ、白い骨は己の咥内を傷つけるであろうに、それでも。それは醜いものではなかったのか。醜かったのか。醜くても、己の中に内包しようとしたのか。それを望んだのか。

身体が擲たれていた時にはそこにあったのは鳥肌の立つ肉の塊だけであっただろうに、今の影の中にはいっそ天使の残り香に似た静かな空気が揺蕩っていた、さながらシャボンの虹に守られるようにもして。美しかった。そのまま籠に入れまた眺めるのもまた悪くないと思えるほどには。その死の訪れるときには囚われる滅びの醜さから、抜け落ち、飛び立っていった小鳥をその風の中に見た。

食べられたかった。食べられたい、と思ったのだった。そして同時に、彼女には小鳥のすべてを己の中に取り込む勇気は未だ持てないでもいた。愛しいひと、愛しいもの。捧げるもの、望むもの。その全てを、彼女は余すことなく受け入れ、愛し、文字通り身も心もひとつになりたいと願う、けれど。果たして。食べられたい己の裏側で、食べることの出来る己がいるのだろうか？　己の最も忌避するものを受け入れられない己を、受け入れたいと願いながら。


風が吹いている。あの日の美しい光景は、彼女を支配する時間、朝、雨あがりの、頬に水の粒子のくちづけあう。今はどうだろうか。目の前の横たわる猫を見て思う。どうしてわたしはあの朝を思い出したのだろう。脱走兵。この猫は、何処へ行きたかったのだろう。それは気まぐれなのかもしれなかった。けれど、彼女は猫を抱き上げて、小さくその頬にくちづけてやった。己の肩甲骨から零れ落ちる気配、紅の花弁の風に揺れる。血の匂い。わたしの血の匂い。毒された匂い。それを猫の口に含ませると地面に下してやった。そして猫は老い、小さくちぢみ、黒く炭化し、風化してゆく。右の脹脛に激痛が走った。恐らくは契約のしるし。鳥肌が、立つ。触れることは出来なかった。だから下したのだ。黒の風を己の中に取り込んでやることとしたとはいえ。

猫を救いたかったのではない。結局今も、救われたいのは己ひとりだ。己の美を保つために、彼女の身体は常に身代りの力を求めている。それだけのことだ、彼女にとっては。苦しむのは己ではなく、己の血を巡る猫であり、そしてその力はウイルスと拮抗するためだけに存在を赦されることとなる。ヤールであればその世界に光をもたらしただろう。オルガであれば、抜け出して連れ出す場所もあったろう。けれど彼女のしたことは、その猫を再び鳥籠に閉じ込めることに過ぎない。そして彼女は己の生命力——未来を売り渡す。あの日猫は指先に止まる小鳥を追い払ったのではなかったか。もう今は猫の姿のない大地を彼女はぼんやりと見つめた。羽毛も血のあともなかった。