◇彼のほーむができるまで



少年は静かに泣いていた、
先程までの絶叫に似た泣き声は、彼の行為を加速させる事に他ならならない、そう悟ったのだ。

少年の小さな手のひらは、両の手共に赤く染まった小刀で布団と床に縫い付けられている。

少年の口に歯は見えない、全て先ほど彼の"前戯"で無理矢理抜かれてしまっていた、
縫い付けられた手のひらは少し動かすだけで激痛が走る、血濡れの唾液で汚れた口を拭うこともできず、
ただ少年は服従の姿勢を取らざる負えない。

痛み 恐怖 苦しみ 悲しみ 全てが彼のちいさなちいさな体と心に突き刺さる、
逃げる事は出来ず、泣き叫ぶ事で精神を慰める事も出来ず、
追い詰められた少年の精神は過去へと思いを馳せる。

———ああ、きのうはたのしかったなあ
———ああ、けさのごはんはおいしかったなあ
———ああ、もどりたいなあ もどりたいなあ

馳せる思いはつい先刻の事ばかり、なんでもない日常の事ばかり、
少年は過去や未来の大きな幸せを思わなかった、

ただただ日常を！昨日までの、今朝までの日常を！

少年はそれだけを思い、それだけを懐かしんだ。

———おとうさん おかあさん

自然と脳裏を過る父と母の暖かな笑顔。
それは少年の涙腺を再び決壊させるには十分だった。

「うっ　ううっ　うぇぇぇ」

滝のように流れる涙、止めようと思っても次から次へ喉奥から湧き出る嗚咽、
少年の理性は絶望と悲しみに押し流されてゆく。

止まらない　止まらない　涙も　嗚咽も

「おぁぁすぁん」

ふと出た、嗚咽と歯を失った口のせいで言葉にならない母を呼ぶ声、
出してしまった、呼んでしまった、

それに応えるのは今はもう"彼"しかいないというのに。


かた　かた


鳴子が緩やかな風に煽られたような、そんな小さな乾いた音。

しかし、少年は戦慄する、
止められなかった嗚咽と涙が一瞬で引っ込む。

見るのは嫌だが、見えないのはもっと嫌だ、
目線だけを音がした方へ向ける、向ける。


彼が立っていた。


う　ひゃ　ひゃ　ひゃ　ひゃ　ひゃ　ひゃ

耳を塞ぎたくなるような笑い声、顔が恐怖で引き攣り歪む。

彼は今朝の残りの白米が入ったお櫃を抱えて立っていた、
暫く少年の前から姿を消していたのは、逃げた訳でも、少年に飽きたわけでも無く、
何か食料を探していたからなのだろう。

「お か ぁ ぁ さ ん　う ひゃ ひゃ　お か ぁ ぁ ぁ さ ん か ぁ ぁ あ 」

掠れているが弱々しい声ではない、むしろ地獄の底から響いてくるような迫力と恐ろしさがある。

「あ あ　御 前 の 母 さ ん に は 悪 い 事 を し た な あ 」
「あ ぁ ぁ ん な べ っ ぴ ん だ っ た の に　に げ る も ん だ か ら よ ぉ ぉ 」

——— ぱ か っ と 殺 っ ち ま っ た よ

「うぅうぅ！　あああああ ぁ ぁ ぁ ！！！」

少年は泣き叫ぶ、網膜に焼き付いた光景が彼の言葉でありありと蘇ったから、蘇ってしまったから

ほんの一瞬の事だ、普段の生活ならば記憶の一片も残らない、
されど少年は覚えている

その時の鳥の囀りも

戸が告げた、来客の音も


迎えた父の首が一刀の元にぐらりと落ちたところも

暴れ狂って逃げ惑う母の頭を二つに割った大きな刀も

飛び散った母の脳と血に染まった脳漿を頭に被り立ち尽くした事も

動かなくなった母の体を悪態を付きながら蹴り飛ばす彼も

この世のものとは思えない容貌をした彼が少年に近づき

それからの事も　　それからの事も

覚えていた

覚えている


「う゛あ゛が あ あああああ　あぶ　が う゛うあ゛あああああ゛あ゛！！」

残酷な数瞬を克明に再生した少年は泣き叫んで嘔吐する、体が揺れて磔の手が傷つくのも忘れて足をばたつかせる。
無様で、滑稽で、でもそれは仕方のないこと、
今日少年が見て、そして味わった出来事を全て受け止めるには少年の心は余りにも小さすぎた。

ひびの入った器から溢れた感情は涙となり絶叫となり、零れてゆく 零れてゆく

あまりにも痛ましい情景、
されども毛の生えた心臓すら当に捨て去った彼に痛む物など無く

「　う　る　せ　え　」

冷たい声色で、ただただ無慈悲に少年の顔へ鉄拳を叩き落とした

ばぎゅ

と、聞き慣れない音がして少年は一瞬静かになる、
鼻は潰れ、目の血管が切れたのか両の目とも真っ赤に充血する。

「う ひゃ ひゃ ひゃ ひゃ 男 前 に な っ た な あ ひゃ ひゃ ひゃ ひゃ ひゃ 」

「ぅ ぅ ぅ お ひゃあ ざぁ ん ん 」

少年はもう二度と返事を返さない母の名を呼ぶ

———おかあさん　おかあさん　おかあさん　おかあさん　おかあさん

何度も何度も　狂ったように

———おかあさん　おかあさん　おかあさん　おかあさん　おかあさん

何度母の名を呼んだ頃だろう、彼は柔軟性が消え失せた硬い口端を無理矢理歪ませると、
少年の揺らぐ視界から一度消えて、それからすぐに薄紅色の得体の知れない物持って戻ってきた。

少年は、最初それがなんなのか見当も付かなかったが、
溜まった涙がこぼれて視界が鮮明になるとすぐに理解した。



それは紛れもなく、少年の母の"脳片"だった

「ひゃ ひゃ ひゃ ひゃ わ か る か ？ 御 前 の 母ちゃん　　だ よ お ぉ ぉ ぉ ぉ 」

言葉が出ない、出すべき言葉が脂汗となって落ちてゆく、
少年に歯があればかちかちと警報音を奏でているだろう。

今少年を支配しているものは悲しみでも痛みでも無く、恐怖

目の前にいるこの彼が、どこまでも残酷な彼が途方もなく恐ろしい。

「ど ぉ ぉ ぉ し た ん だ よぉぉぉ あ ん な に 会 い た が っ た 母 ち ゃ ん だ ぜ ？何 か 言 っ た ら ど う な ん だ ？」

恐ろしい声に最大のおちょくりを込めて彼は少年に囁く、
少年は"言わない"のでは無く、"言えない"のだ、
恐怖と言う蛇に呑まれた少年は、ただ蛙のように震えることしか出来ない。

「ほ ら 言 い な "親不孝な息子でごめんよぉぉ" っ て "おいらもすぐに逝くから許しておくれぇぇ" っ て 」

言いながら彼は音も無く包丁を取り出した、
少年の神経と言う神経がざわ付く、すべての五感が少年に逃げろと告げている、

逃げなければ　逃げなければ　逃げなければ　逃げなければ

でも

逃　げ　ら　れ　な　い　

「　ほ　ら　言　え　よ　！　」

ず だ あ ぁ ん ！

振り下ろされた包丁は少年の右腕の骨を轟音と共に断ち、布団に沈んでいく

「う ぎゃ が あ あ あ あ あ あ あ ！！！！」

たまらず上がる大絶叫、顎が外れんばかりに開けられる少年の口にひょいと何かが投げ込まれる、

混乱のまま吐き出そうとする少年の口を、彼がその冷たく硬い手で押さえつけた。
　
「お い　せ っ か く 入 れ て や っ た ん だ 吐 き 出 す ん じゃ あ ね え ぜ 小 僧 」

少年は首を振って答える、すると今度は喉首に父を、母を斬り殺した長刀が当てられた。

「死 に 様 ま で 親 父 を 見 習 い た か ねぇ だ ろ ？ 」
「ほ ら、食 う ん だ 歯 茎 で 噛 め 、飴 玉 転 が す み た い に 舐 め ろ 」

ちりちりと刀が喉に食い込んでいく感触に震え上がった少年は、投げ込まれたそれを言われた通りに噛む、舐める。

途端、口全体に広がる血なまぐさい臭い、喉奥からせり上がる嘔吐感、
そして少年は、とうとう自分が何を食わされているのかわかってしまった、

ああ、なんと言う事だろう

少年が食わされているのは先の脳片だ、母の脳片だ。

口内の物の正体がわかっても尚、少年はそれを味わわざる負えない、
吐き出したら最期、父のように首を飛ばされるのがわかっているからだ。

「"お袋の味" っ て 奴 は ど う だ よ ぉ ぉ ぉ 美味ぇ か ？ う ひ ゃ は は は は っ 」

彼の嘲笑も耳に入らず、少年は口の中のいる"母"を懸命に処理する、
歯茎で噛み潰し、細かくなった"母"を、潰れ出た汁を、舌で味わいながら喉奥へ流し込む、
逆流する胃液を必死に抑えながら時間をかけて全て飲み込み、少年は彼の顔を見た。

「食 っ た か　ぜ ん ぶ 」

無言で頷く少年、それを見て彼は少年の口から手を離すと、
表情筋の無い顔で器用ににやりと笑って見せた。

「本 当 か ど う か 見 て や ろ う ど れ　"あ　け　る　ぞ"　」

強引にこじ開けられる前に自分から従順に口を開ける少年、
それを見る、"返り血に染まった"にやけ顔の彼

「えっ？」

"開いていた"　少年が口を開けるその前に、少年の腹が"開いていた"

「あっ　あっ　あっ　あっ」

開かれた腹からどくどく流れ出す、血 血 血
脂汗が体全体に顔を出し、遅れてじわじわと痛みがやってきた。

う　ひゃ　ひゃ　ひゃ　ひゃ　ひゃ　ひゃ　ひゃ　ひゃ　

彼の狂った笑え声が響く、
彼は少年の腹を切り開いた長刀を放り投げ、少年の体の中をまさぐっていた

少年のまだ清らかで美しい腸をずるずる引きずり出してはこれでは無い、と放り捨て、
目当ての小さな胃を取り出して、つまんだり引っ張ったり、幼児のように弄ぶ。

その度に少年はくぐもったうめき声を上げ、血泡を吹き散らして顔を歪める、

「本 当 に 食っ た の か ？ 胃 が 小 さ す ぎ る ぞ　えっ？ ど う な ん だ ？」

少年は答えない、いやどこの世界に腹を割られてまともに喋れる者がいるだろう。
そもそも彼は答えなど求めていない、この問いかけは言ってしまえば何の意味も無い彼の自慰行為である、
ここで少年がどう答えようと、ここに至るまでどんな行動をしようと彼の行動と少年の末路は変わらないのだ。

「応 え が 無 い と い う こ と は　御 前 は 嘘 を 付 い た と 言 う こ と だ な ？」

「こ の 嘘 つ き め　う ひゃ ひゃ 嘘 つ き の 胃 な ど こ う し て く れ る 」

彼は少年の胃を持った手に力を込める、少年の胃はまるで紙風船のようにひしゃげて潰れた

「げ　ぽ っっっ！！！」

潰れた胃から逆流した血の混じった胃液と内容物が少年の鼻と口から噴水のように吹き出し、
その様を見て彼はまた笑い声をあげる。

「げっ　げひゃ　ひゃ　ぐひ　がひゃ」

少年の体は痙攣し、尋常ならざる呼吸音は少年が急速に死に飲まれていると言う事を示していた。

彼は馬鹿笑いをようやく収めると、死に行く少年の顔を下卑たにやけ顔で眺める。

———いじめ殺される女と糞がきの顔は最高だ

———最高に"踏みにじってる"ってぇ気分になれる

———最低の気分だったがぁ ちょいと晴れやかな気分になれたぜぇ


———これだから殺しはやめられねぇ！！

彼は少年の顔に付いた薄紅色の肉片を指に拭い取るとじぃと見つめた

「お お　こ い つぁ 御 前 の 母 ちゃ ん じゃ ねぇ か　う ひゃ ひゃ　悪ぃ な ちゃ ん と 食って た の か」

「で も な 小 僧」

彼は指についた肉片を親指と人差し指で弾き飛ばすと、
愛用の人斬り長刀を高く高く振り上げた。

「吐 き 出 し た な ら　"お　仕　置　き　だ"　」

少年の目は既に曇りきり、刀の煌きすら返さない。

少年はこの今際の時に何を思っているのだろうか、この短い人生の終わりに少年が残すものはなんだろうか
"彼"は凄まじい怨念を残したが少年は何を残していくのだろう

それを聞くには

———ああ、少し遅かったな


ず　だ　ん　！

少年の首がころりと転がる

彼はその首を足で蹴飛ばすと、お櫃を持って囲炉裏の方へ向かった。


はぁやれやれ、活動拠点を構えようと言ったのは私だが、よもやこんな手法で手に入れるとは予想外だった、
彼の悪辣さを少し見くびっていたらしい。

しかし。

きょろきょろと辺りを見渡す、死体が三つに、辺り構わず飛び散った血肉片、
ここを安穏の拠点にするにはもう少し骨をおらねばならないだろう。

溜息が出そうになるのをぐっとこらえ、私は部屋の清掃に取り掛かる。

小さな"えんぶりを"の身には途轍もない大仕事だが、彼がやらないのなら私がやるしかないのだ、頑張ろう。



はぁぁぁぁ…。

骨を前に、少女は薔薇を一輪、摘まんで差し出した。

狂骨にかざされた花が、赤く、蘭々と光る様を、少女は見つめる。

マリアを中心として冷気がただよい、周囲の温度が下がり始める

いつもより控えめに笑うと刀をぎらりと煌めかせた