2.


　日が顔を出して間もない、まだ誰もが寝ているであろう早朝。
　ポポロはいつも以上に軽い足取りで、リチェッタの掃除をしていた。なにやらずいぶんとご機嫌な様子で、調子の外れた鼻歌を口ずさみ、ときおり思い出し笑いなんかをして吹き出している。
　たいして汚れてもいないテーブルを丹念に拭いて、水気に反射する光をまるで宝石でも見るような目つきで眺めて、ポポロは満足げに頷く。
　楽しい。
　これからの日々を考えると、一時だってじっとしていられない。
　どこのどいつが、どんな考えを持ってやったことなのかはわからない。わからないが、ここまで世界同士を繋げた世界は今までに見たことがない。"元素の世界"とはよく言ったものだ。ここにはあらゆる意思があるのだと思う。それらはときに結合し、自分が思いもしない出来事を生むのだ。
　そして、それは楽しいことに違いない。
　——この世界にいれば、
　頭の中の想像があふれだして、思わず身体に力がはいる。磨いていたテーブルの脚が一瞬だけ浮いて、再び地面に接したときにごとりと音を立てた。
　——この世界にいれば、ピアさんも元気になるはずです。
　昔のピアは、今のようではなかった。
　どこへ行くにも一緒なのが嬉しかった。ぶっきらぼうなのに、感情がすぐ顔に出るのが面白かった。いろんな話を聞かせてくれて、ときおり目を輝かせて語る彼女を見るのが楽しかった。
　それと、大好きなチェロの音色をまた聞きたい。

　ポポロはついに我慢しきれなくなって、甘ったるい声が出てしまう。反り返るほどに背筋を伸ばすことで、高ぶる気持ちを発散させる。興奮しすぎて大声を出してしまいそうだった。
　掃除をしよう。
　そう思ったポポロの手にはいつの間にかモップが握られており、振り上げ、それを勢いよく床に叩きつけた。
　にかっ、と一点の曇りもない笑みが浮かぶ。

　心の中でそう叫んで、ポポロは踊るように走り出す。

　　　＊

　掃除を終えてしばらくすると、入り口の扉が開いてピアがやってきた。時刻はまだ早朝と言っていい時間だ。

　にこにこと笑うポポロに対して、ピアは気だるげな足取りで入り口からもっとも近いテーブルに座る。どうやら寝起きのようで、いつもより目を細めているその顔は相変わらずの無表情だが、見ようによってはむすっとしているようにも見える。
　ポポロがピアに近づくと、眠そうにしているピアがおかしいのかくすりと笑い、

　ポポロほどではないが、ピアも数ヶ月は本来休眠する必要がない身体だ。態度にでるほどの深い眠りは珍しい。

　見知らぬ人と会って緊張したから、などとは口が裂けても言わない。

　そう言って立ち上がろうとするピアを、ポポロは声で制す。

　ポポロはピアが何かを言う前に身をひるがえして、早足でカウンターの中へ入っていく。何かを言おうと口を開けていたピアは言葉ではなく細い息を吐いてから、浮かせていた腰をあらためて下ろす。
　テーブルの上に頬杖をついて、ぼんやりとした視線をポポロの背中に送る。

　キン、と食器同士がぶつかる音が、ピアの頭の中で心地よく響いた。

　ポポロはその元気のよさとは裏腹に、コーヒーカップの乗ったソーサーを静かにテーブルに置く。自由奔放で何も考えていないように見えるポポロだが、今みたいに思慮深い一面をときおり見せることがある。そんなポポロを見かけると、ピアはいつも背中がむずむずするような感覚になって、落ち着かなくなる。
　この感情が、好意なのか敵意なのかもわからない。

　そしてポポロはトレーを両手に持ったまま、ピアの対面に座る。そのままひと言もしゃべらずに、笑みを絶やさぬままピアのことを見ている。何か話でもあるのかと思えばそういうわけでもなく、妙な沈黙が二人の間で流れる。
　ピアはカップを手にとって、コーヒーを一口。

　飲みづらいことこの上ない。

　ポポロは持っているトレーを胸のところまで持ち上げ、嬉しそうに「はい」と答えて、

　予想通りのポポロの言葉に、ピアはさして興味がなさそうに視線だけで頷いてみせて、

　さすがのピア相手でも、聞き捨てならなかったのだろう。ポポロは途端に目つきを険しくさせて、ばたばたとトレーを上下に振り始める。そよふく風がピアの前髪を揺らした。

　言い返せず、頬袋でもあるのかと思うほどに頬をむっすー、と膨らませるポポロ。
　が、すぐにその顔は明るんで、にまーっと底意地が悪そうな笑みを浮かべる。

　　　＊

　がやがやとした雑音が聞こえ始めてきた。ドアの開閉、小走りに急ぐ足音、誰かと誰かの挨拶。そんなありふれた、それでも今までになかった音を、ポポロはまるでオーケストラが目の前にいるかのように、目を閉じて耳を傾けている。

　ポポロとピアは同時に席を立つ。ピアはカウンターへ向かい、ポポロもそれに続こうとしたが、その場でぴたりと静止した。

　そう言いながら、ポポロはいきなりピアの背後に飛びつく。ピアが振り向く逆方向から狙った、洗練された抱きつき方だった。
　そのとき、入り口のドアが開いた。おそらく話し声でも聞きつけて、住人の誰かが様子を見にきたのだろう。今度からオープンとクローズの案内看板を入り口につけよう、ピアは心の中でそう思った。
　身体を宙に放り出しながら、ポポロは「勝った」と思った。ピアがドアの音に一瞬気を取られたからだ。ここまで間合いを詰めてしまえば、押し返されるよりも早く、伸ばした腕がピアの胴に巻きつくはずだった。
　ピアが逃げるように膝を折ったかと思えば、突然ピアの腕が蛇のように伸びてきて、腕と腕が交差する。ポポロはまさか向こうから飛び込んでくるとは思いもしない。這いよる上肢が上腕に触れたところまでは目視できていた。
　そして、次の瞬間にはポポロは空中で一回転していた。
　地面に激突する寸前で、逆方向の力が働く。まるでベッドの上かと勘違いするほど柔らかい着地。
　何がなんだかわからないまま、ポポロは目を丸くする。力を利用されて投げられた、などという自覚はどこにもない。

　その声で、呆然としていたポポロはすぐさま立ち直る。慣れた様子で拗ねてみせて、

　そう言って、ピアはさっさとカウンターへと行ってしまう。
　ポポロは忘れていた、という顔をしながら入り口の方を振り向く。
　未だ夢から醒めた直後のような顔をしている住人に、朝の日射しのような笑顔を向ける。

　それは客ではなく、共に生活を営む——家族に対する挨拶だった。

メルンテーゼ上空　そこにあるたんぽぽ荘を周囲の空中を回るように移動しながら観察している青い人影があった

他にも何か情報が得られないかと全方位からたんぽぽ荘を観察しようと
緑の光の尾を描きつつゆっくりと飛行をしている
あなたは彼女と話し合ってもいいし、容赦なく迎撃を開始してもいい。

二足歩行をする竜、もしくは竜人に似た者が貴女をじっと見つめていたかと思うと、そろそろと近付いていく。

間違っていたらどうしようとばかりに、恐る恐る問い掛ける。

きょろきょろと辺りを見渡し、他に人が居ないことを確認してから近づくと小声でこそこそと話しかけてきた。

見すぼらしい格好の男が、貴方を呼び止めた