——遠く。遠く。
鐘の音が、鳴っている。
小さく、遠く。寝息のような緩やかさと規則正しさを兼ね備えた、招くような鐘の音。
その誘いに乗ろうとすれば、鐘の音は小さくなり、何かに自分が溶けていくような心地よい感覚が身を包む。
「クソ、が」
そんな浅い眠りを噛み潰すような、聞き慣れた低い声。
「……ぁ……」
「あァ、クソ、だぁってろ。動くな。余計"足りなく"なる」
聞き慣れた罵声混じりの命令。その声にはいつだって従ってきた。
眠りよりも心地よいそれに従い、身を委ねる。
だが、少しだけ、困る。黙っていては命令に返事を返せない。
後で、お叱りを受けなければよいのだが。


「——クソ、クソ、クソが」
男の口から飛び出す意味のない罵声が、虚しく機械じかけの船の中に溶ける。
焦りを口から吐き出すことで、頭が冷めると信じているかのように延々と。
頼もしかったリアクターの音は今は弱々しく、葬式の鐘の音めいて遠くに響くのも彼の焦りの一因だったが、それよりも大きな問題が彼の眼の前に横たわっている。
「——死にかけてんじゃねェよクソがッ」
男が抱えているのは血を今も流し続ける、少女の体。
見開いた瞳は、瞳孔が開ききって何も映してないのが見て取れる。
「クソが。意識があってコレってことは視神経が焼き切れてるか？」
いかなる手段か、確信めいて意識の有無を断言した後。男は自らの腰から何本かのアンプルを取り出し。
そして全て破損しているそれらを見てまた罵声をひとつ。
「クソが」


数時間後。
血の流れた床の上に、男は沈み。少女は立っていた。
「——状況は理解できるか、[犬っころ（Whelp)]」
「S..Sir.No,sir」
「処置は、した。お前に足りなかった血と肉は補った。目は……残念だったな。医療ナノマシンが不足だ。偵察用デバイスでの視覚共有で代用だ。……理解できたか？」
「Sir...Ye,Yes,sir」
犬っころと呼ばれた少女の、声が、震えている。
彼女の知識の中に、船の設備の知識は当然ある。
曲がりなりにも軍であれば、身体欠損レベルの傷病も起こりえる。
故に、再生治療の設備はこの船にもある。
しかしながら、再生とはいえど、"材料無しで何かを作る"ということは起こり得ない。
血肉を作るには再生治療ナノマシンと血肉の材料が、必要になる。
その答えが、彼女の視界であり、彼の視界でもある瞳に、映っている。
刃毀れを起こした、血と肉のこびりついた、ナイフ。脱ぎ捨てられた、片方だけのブーツ。視界の端に映る中身の無い片袖。
「request。……救助到着までの、時間は」
少女の問いには、とある算段がある。
ナノマシンと再生治療用蛋白材の現物がなくとも、救援が間に合えば彼女の上官の手足の再生治療も間に合う可能性がある。
そんな期待が背景にあった問いの応えは——
「——しらねェよ。というか、知ることが不可能だな、こりゃ」
「？それは、どういう……」
更に問を重ねる彼女に、答えは言葉でなく、彼が首を横に向けることでもたらされた景色によって回答がなされた。

——広がる、森。遠くの田園風景。そして、城。

「……たしか、砂礫の海、だったよなァ。交戦区域は」
直径1500kmに及ぶ礫砂漠、それが彼女たちの居た、場所。否。"世界"。
「森、なんて、プラントか教会に飾ってる絵でしか見たことねェぞ……」
男の声は、諦めたような笑いを含んでいた。




彼らが、"異世界"の答えを即座に導き出し、受け入れたのには理由がある。
「——まさかなァ。いや、"企業"の連中は確かにそう言ってたけどな」
彼らの世界は、幾つもの箱庭が群れた世界である。それは彼らの常識だった。
箱庭から箱庭への移動は、容易ではなく一握りの技術や能力を持った者でなければできないが、"次元の裂け目"で切り取られた"世界の果て"は、彼ら下層の人間でも見ることはできたからだ。
そして、異世界から運び込まれる技術や資材の数々。
「"魔法"、ねェ。……PSYと違ってちゃんと技術らしいが。目の当たりにすると、アレだな。なぁ？」
「Sir.指示語が不明確のため回答出来ません」
「ぁー。そうかよ。……とりあえず、アレだ。よくわからんが助かったのは"魔法"のせいらしい。機体のブラックボックス部分だな」
「……俗称の"気合のこもったパンチが一番痛いSystem"のことでしょうか」
「それだ。謎のパワーゲインのアレだ」
視界に映るコンソール画面には、いくつかの情報がCUIで表示されているが、問題にされているのはその中の一文。
「緊急脱出魔術ほにゃらら、なぁ。この固有名詞は読めんが。要約すると取り敢えず再起動の燃料がないと動かねぇ、わけだな」
「Sir.Yes,sir。そのように、読めます」
「……この世界でそれが確保できると思うか？」
「Sir.ご命令を」
「ん？」
「ご命令を。捜せ、と」
「……[犬っころ]め」