「羊探しは、リュコ、お前一人でやるがよい」
「——は？」

老人の意外な言葉に、少女のその屈託のない笑みが固まる。
時が止まったように、笑みを浮かべたまま固まる孫の表情を見つめ、

（1、2……）

老人が心の中で3を数えようとした所で、少女の止まっていた時は動きだした。
先ほどまでの柔らかな笑みとは打って変わって、困惑し、慌てふためいた様相で祖父へと詰め寄る。

「え、ちょ、ちょっと待ってよじぃじ！
　どういうこと、訳が分からないよ！？」
「どうもこうも無いな、言葉の通り、逃げた羊を連れ戻す作業は、リュコ、御主一人で行いなさい。
　儂は一切、この羊探しには参加せんよ」

それに対して、おっとりと答える老人に、少女は更に詰め寄る。

「だから何で！？
　逃げた羊の数、分かってんの！？ここにいる数なんて、目じゃないくらい一杯逃げたんだよ！！
　私一人で連れ戻せる筈、ないじゃない！！
　それに、そもそも、じぃじがここから呼びもどせば、皆帰ってくるじゃない！！
　じぃじ言ってたよね、"じぃじは世界一の羊飼いだから、皆じぃじの言うことを聞くんだぞ"って！
　なのに、私がわざわざ探しに行く理由、ないじゃん！！」

まくし立てる孫に、至って平静に言葉を返す祖父。

「んー……理由か。理由なら、あるぞ」

まず1つ、と、指を折る。

「"新国王による、ネクター独占"が挙げられる。
　確かにリュコ、お前が言ったように、儂なら、逃げた羊達を皆呼び戻すくらいのことは朝飯前だ。
　けれどな。羊たちの好物である"ネクター"が、無い。
　ああ勿論、全くないわけではないが、まあ、今全員戻ってきたら、確実に足りなくなるな。
　ネクターが足りなければ、羊飼いを続けるのは少々つらい。
　……まあ、ネクターが無くとも、羊が飢えて死ぬことは、そうそうないとは思うがな。
　しかし、ネクターが無ければ、羊達はなかなか言うことを聞かなくなるかもしれん」

続いて2つ目、と、老人は話を続ける。

「2つ目は、"儂が高齢であること"。
　例えば、今儂が、羊達を呼び戻したとしよう。まあ、さっきも言った通り、羊に与えるネクターが圧倒的に足りん。
　となると、"新国王"に押さえられていないネクターを何とか見つけ出して、こっそりと確保しておく必要がある。
　ただ、そんなことは他の村人も考えておるだろうし、"新国王"も対策は織り込み済みじゃろう。
　そうでなければ、こんな暴動が起きる筈もない。
　——となると、必然、村からいける場所にあるようなネクター採取場所やネクター農場は、既に手が回っているか、刈り尽くされているおるか……まあ、そのどっちかじゃろうな。
　そうだった場合、さて、リュコや。儂らは何処からネクターを採取する？」
「そ、それは……人の手が入ってない、もっと遠くに行って……」

しどろもどろに応える少女に、老人は頷き、更に言葉を紡ぐ。

「ふむ、必然そうなるな。しかし、ここでもう一つ問題になる。
　リュコや、儂、何歳だと思う？実は儂、今年でもう３ケタに突入するんじゃよ。
「——さ、さんけた？？」
「うむ、3ケタじゃ。思えば長く生きたのぅ……。
　で、だ。この年よりに、何処にあるか分からないネクターを探して放浪する旅は、正直大分シンドイ」

大変にシンドイ、と、ため息交じりに言った。

「いやまあその、そんなにお年寄りだったのは初めて知った……けど、じぃじ結構元気だよね」
「いや、大 変 に シ ン ド イ 」
「…………あ、ハイ」
「という訳で、じゃ。
　儂のような年寄りより、リュコ、お前のような若い者のほうが、ネクターを探しつつ羊を回収するにはうってつけという訳じゃな。
　分かったか？」

リュコにとって、今まで両親の代わりに自分を育て、護ってくれた祖父の言は絶対だった。
祖父の言うことを聞いていれば、怖い物は無くなるし、間違いもない。
その祖父から理由を提示されては、納得せざるを得ない。

「むぅ……。わかった……けど、じぃじと離れるのは、ヤだよ。
　一人じゃ心細いよ、今まではじぃじと一緒だったから、他の人に正体もばれずに何とかなってたよ。
　でも、一人ぼっちは怖いよ、うっかりで誰かに人狼だってばれたら、もうじぃじに会えなくなっちゃうよ……！」

納得はしたが、少女に不安しかないのは、今にも泣きそうなその顔を見れば、火を見るよりも明らかだった。
両親が亡くなった後、自分にべったりだった孫娘の記憶が、老人の頭に浮かんでは消える。
親を求めて、人が怖いと言って、夜泣きしなくなったのはいつからだったか。
自分の後ろに隠れずに、人前に出られるようになったのは一体いつからだったか。
そんな思いを振り払うように、首を軽く振り、老人は言葉を紡ぐ。

「今回ばかりは甘やかせんぞ、お前には、儂を超える立派な羊飼いになってもらわなあかんからな。
　まあそれでも、確かに一人では不安か、ふむ……」

泣き顔の娘に、老人はしばし思案し、「それなら」と、杖を振って、何処かしかに合図を送る。
羊飼いの持つ杖の鈴の音が朝の丘に響くと、今まで悠々自適にその辺りの羊と戯れていた、そのうちの一匹がとてとてとリュコの前へと歩を進めて、

「めぇえ」

挨拶のつもりなのだろうか、一声鳴いた。

「……じぃじ、これ……」
「リュコや、このラト殿を連れていくと良い。
　とても賢い、頼りがいのある御仁だからな、リュコの事も良く助けてくれる筈だ。
　もし、行く先が分からなかったり、羊たちの様子がどうしても分からなくなった時も、彼がある程度どうにかしてくれるだろう。
　宜しく頼むぞ、ラト殿」
「めぇええ」
「待ってじぃじ、これ山羊！！ヤギ！！！羊ですらないよっ、何をどう頼れとっ！？」
「ん？ああそうだったか。まあ細かい事は気にしたらいかんよ。はっはっは。
　それに、人は見目に寄らんよ。人間は怖くとも、ラト殿を通じてなら、リュコもそれを学べるじゃろはっはっは」
「笑いごとじゃなぁいっ！！！」
「めぇえええ」
「はっはっは」

先ほどまでの辛気臭い涙声から一転、ある意味和やかな怒声と笑い声が、白み始めた丘の空に響き渡った。

「あー、もう！分かりました、私が行ってくればいいんでしょ？
　こうなったら、ちゃっちゃと羊達をとっ捕まえて、ネクターもわんさか抱えて戻って来るんだから！！」
「流石は我が孫。これだけの事が言えるなら立派なもんだ。
　言葉通り、ちゃっちゃと羊達を連れて帰ってくるのを待っているぞ」

じぃじの馬鹿、もうしらないんだから！！と言いつつも、威勢の良い啖呵を切る。
そんな孫を、笑いを収めて眺めると、ぽん、と、その肩をたたき、くるりとまわれ右をさせて、

「決まれば、善は急げというからな。今すぐ行くと良い。
　羊達は、きっと自分たちの居心地がよい場所にいるじゃろう。
　それぞれの羊たちの特徴を良く考えて探せば、簡単に見つかる筈だ。
　頑張れよ、リュコ」

ぽん、と、万感の思いを込めて背中を押した。

「頑張れよ、リュコ。
　儂はここで、ずっとお前のことを応援しているからな。
　旅の無事を、これからの道行きを、祈っておるよ」

それは、恐らく孫にも伝わったのだろう。
何歩か進んで振り向いて、ふくれっ面を笑みに変えた。

「はいはい、了解！
　——いってきます、じぃじ！」

大声に驚いた羊達がめぇえと老人の周りに集まる様子と、自身を笑顔で見送る祖父の姿を目にやきつけて、リュコは丘を駆け下りていく。
祖父の見守る目線が、応援する声が、そんな彼女の背中を、ずっとずっと追い風のように優しく押していた。







その日の早朝、メルンテーゼ北東部にある"風鳴りの丘"周辺に、狼の遠吠えが空高く響き渡った。
一度二度と、青空に吸い込まれるように響き渡ったその声は、声を耳にした周辺の村民たちを不安がらせたが、それきり、特に何も変わった事は起きなかったという。
古くからの村の識者たちは、揃って、
「この辺りの狼は、最初こそ恐ろしかったものの、外敵を追い払ってくれたりと、ある意味守り神みたいなものだったからねえ。
　居るなら、一度くらいはお目にかかって、お礼を言いたいもんだがねえ」
そう証言するが、この日も、彼らの遠吠えを聞く者はあっても、その姿を目視する者は一人として居なかった。
その為、この日聞こえる遠吠えも、丘に生える木々が風に鳴る音がそう聞こえただけだろうと判断された。

　　　　　　（しろいちっこいのが近寄ってきた羊をぺふぺふしている）

　　　　　　（走ってきた少女に気付いたのか、羊と少女を交互に見・・・）

己の影と対話をするように頷いている黒山羊が見える。

黒山羊は、羊と飼い主が来たのを見てゆっくり振り返った。

黒山羊は干藁を見て、少しがっかりしたような顔をしているように見える。

干藁を食べる振りをしつつ、隣の羊に横流しをしているようだ。

なんだか悪い顔をしている。

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いつのまにか、何かを咥えている。