王が隠れた。そんな噂が凍土の寒村を駆け巡った。
　隠れるという言葉が持つ意味を察したのは学校のない寒村で生まれ育った大人達よりも、主人が麓から招いた教師によって様々な知識を得て育った若者や子供達の方が多かった。
「どうなんじゃ、お亡くなりになったのか、ただ退位なされただけなのか」
「わからん、どうにも要領を得ん。役人の使い走りはお隠れになったとか曖昧な事しか言わん。ありゃ何も聞かされてないんじゃなかろうか」
　長老達が主人の邸宅に集まって話しているのが開け放たれた窓から漏れ聞こえる。
　ゴードは地べたに座って氷麦を束ねながら、深刻ぶった会話をぼんやりと聞いていた。
「ゴード、王様もかくれんぼするの？」
　ゴードの太股に肘を突いて、余った麦で頭冠を作っていた少女が顔を上げた。
「いいえ、あれは王様が王様をやめたか、お亡くなりになったという意味ですよ」
　昔から少女はゴードの硬い太股を机代わりにして何かをする事が多かったが、最早注意することも諦めた。最初こそゴードも主人一家も注意をしていたが、今では「いいからゴードの所でお勉強して来なさい」と積極的に机代わりにしている始末だ。
「なんでかくれるって言うの？」
　畳みかけるように質問を重ねてくる癖は、未だに変わっていない。ゴードの知識では答えに詰まることも増えた。今がまさにそうだ。
「何ででしょうね？　お嬢が勉強して俺に教えてください」
「うん！」
　答えられない時のあしらいかたも身につけた。少女はいつも元気よく素直に返事をする。実行するかはまた別の話だ。
「できた！　しゃがんでしゃがんで」
　麦で編んだ輪っかをゴードに載せようとする。
「しゃがむどころか座って——お嬢、痛いです」
　顎髭を引っ張られて下がった頭に麦の頭冠が載せられた。
「王様がいなくなったので、新しい王様はゴードです！」
「さすがに農奴が王様は——」
「おきさき様はわたし！」
「ご主人様と奥様に許して貰ってからにしてください」
　困り果てた顔でゴードは頬を掻いた。
「あら、良いわよ。貰ってやって」
　頭上から唐突に声が掛かり、ゴードは急いで立ちあがった。
「長老さん達にもお茶をお出ししたから、あなた達もどう？」
「いえ奥様、私は——」
「ちゃんと手を洗わせてね」
　奥方は笑いながら部屋の奥へと引っ込んでいく。思えば最初に子守を押しつけたのもこの人だった。
「あとはおとうさんだけだね！」
　少女は力強く握り拳を作って、井戸小屋へと走って行った。
「冗談にしても本気にしても反応に困る……」
　そう独りごちると、ゴードはため息をついて少女の背をゆっくりと追いかけた。
「お嬢、一人で井戸を使っちゃいけませんよ！　落ちたらどうするんです！」


　　　　　　　　　　＊


「おい、聞いたか？」
　随分と不適切な質問に、ゴードは視線だけで先を促した。
「新しい王様がネクターを根こそぎ集めてるってのを問いただすって息巻いてた坊ちゃんがたがいたろ。フェリプソとかグレイディブとか」
　どちらも聞き覚えのある名前だった。主人が麓から招いた学者や教師によって開かれていた教室で机を並べた学友だった。彼らは商人や独立農家の息子だったが、この一帯で一番力を持つ主人のファードライ農場の影響力は大きく、彼らも農奴と気軽に話す青年達だった。ゴードよりも少し歳が下だったので、直接話すことは少なかったが、少なくとも悪い印象はない。
「あいつら、ホントに王様の所へ抗議しに行ってるらしいぜ」
「長老達が許したのか？」
「おう、ティリアーテの爺様の孫が代表になって、もう二週間も前に出発したらしい」
「随分前だな、そうか、そんなに村に行ってなかったか」
　王都からの命令でこの寒村のネクターも根こそぎ奪われてしまった。
　大地の活力が乏しく、冷気の勢力が強いこの土地では、凍土に適応した作物ですらあまり収穫できない。それでもこの大規模な農場を維持できているのは、エンブリオの力を借りて大地の活力を強化しているからだ。ネクターが無くては作物も取れない。それは何もファードライ農場だけに限らず、寒村の作物や動物もエンブリオの力に頼っている部分が大きい。ネクターが失われるというのは死活問題だった。
　氷麦も随分と収穫量が減っており、以前のようにゴードが借り出されて寒村を経由して麓の街まで運搬するという事は無くなってきていた。
「あれ、でも抗議の話が出た時に、お前に護衛の話が来てたんじゃないのか？」
「俺が答える前に、お嬢が泣いて嫌がったからご主人様が断ってしまった」
「お嬢はお前にべったりだもんな」
「……妹がいれば、あんな感じなのかと思うことがある。ご主人様には内緒だぞ」
　仮にも農奴と主人の娘である。妹などと言うのは立場が違いすぎて無礼だと自覚していた。主人は気にしないかも知れないが、ゴード自身が気にするのだ。
　農奴仲間が口の端をつり上げて肩をすくめた時、彼らが作業していた納屋の大扉が乱暴に開け放たれた。
「サルファード、フィロック、大変だ！　首っ、首がっ！」
「おいおい、俺達ゃ何もしてねえぞ、何でクビなんだよ！」
「違う！　首が届いた！　グレイディブさんとかティリアーテのボンの首が！　酷ぇッ！」
　からんと乾いた音がゴードの足下で鳴った。農奴仲間のフィロックが手に持った木札を落とした音だ。
　ああ、そういえばフィロックはグレイディブと仲が良かったな——呆然としたゴードの脳裏にそんな言葉が浮かんで、すぐに消えた。
　何かが今この時も終わり続けている。
　そんな不吉な予感が吐き気と共にこみ上げてきた。

　ゴードは鎌の刃を研いでいる。