くぐもった声と共に、びちゃびちゃと音をたてて、少女の足元は黄色に染まった。
胃の中に殆ど何も入れてないせいもあるだろう、雪の上にまき散らされた吐瀉物は色の無い景色の中で浮いて見えるほどに鮮やかだった。
胃液が逆流し、鼻がつんと痛む。
肩をせわしなく上下させる少女の喉もまた、冷気でじんじんと響いた。
呼吸を落ち着かせようと鼻から息を吸うと、濃い血の匂いと酸の匂いとが混ざり、その不快感に少女はまた吐いた。
下瞼のへんが熱くなり、食い散らかされたかつて人だったソレは雪の上に広がる赤い絨毯へと変わった。



*



「———…　ここも、駄目だわ。」

手の中の羊皮紙と目の前に立ち塞がる巨大な壁を交互に見比べ、少女は眉を下げた。
積み重なった雪の彼方こちらから、気の幹や枝が飛び出している。
呆けたように暫く少女は立ち尽くしていたが、やがて無言で踵を返した。
青い小鳥は、無言で少女の肩にとまっている。


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親愛なるレフィーンお姉さま


お怪我等無く、健勝に過ごしていらっしゃるでしょうか。
お姉さまが方が旅だった日から、今頃何処にいらっしゃるのだろうかと思わない日はありません。
リュートの様子はどうでしょうか。
この手紙の話を聞いたら、心配しすぎだと笑われるのかしら。

私はマレクを発ち、海を目指し北上しています。
リント領を旅するには十分に温かくなったかと思いましたが、山間に入ると例年に比べ雪はまだ多く、なかなか思うように進むことができないでいます。
ここまで旅をする間、雪に耐えられなかったのでしょう、いくつもの倒壊した民家を目の当たりにしました。
集落に住む人々もみな、飢えと凶暴さを増す動物やエンブリオの恐怖から、肩を寄せ合うようにして長く明けない冬に耐えています。

どうか、一日も早く戦が終わり、お姉さま方がこの地へ帰還されますよう。
そして、お姉さま、リュート、隊長さんをはじめリント領の為に戦って下さっている方々の無事を願うばかりです。


チセ

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*



グル…
「チセ」

は、と息を呑んで少女は目を見開いた。
あれ程までに乱れていた呼吸も今は止まり、少女の身体は小刻みに震えている。

「こいつ等を襲ってからまだ近くに居たらしい。…恐らく、狼だろう。」

耳元のエンブリオの声に、少女は数拍を空けた後に頭を揺らす様に何度も頷いた。

グル…
「ひ…」

漏れ出た声に、少女は口を覆った。
獣が獰猛に喉を鳴らす音は確実に近くなっている。

「いいかチセ。落ち着いて私の話を聞くんだ。
狼の姿が見えたら、銃で威嚇しろ。それでも駄目なら、戦うしかない。」

少女はシピリカの言葉を自分に言い聞かせる様に何度も頷きながら、鞄の中から銃を取り出した。
手はひどく震えている。
取り落とさないように力を込めて両の手で握っても、それは変わらない。

「ぃ、や…」
グル…
　　　　　　　　　　　　　　 グルル…

少女の耳は、増えた唸り声をしっかりと捉えた。
信じたくないとばかりに首を振った。
無意識に、身体が後ずさる。
ブーツの底が、深く雪に埋まり慌てて足を抜こうとグ…　ゥゥ——…

「ぁ…　、あ、あぁ…　　、、」

その声は遥かに近く、まるで耳元で鳴っているかのように感じた。
雪に埋まった片脚はそのままに、震える頭を左側へ向ける。
赤黒く汚れた灰の毛並。
むき出しとなった鋭く大きな犬歯は、其れよりも僅かに赤さを残す。


グ…ルル…
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　ウ———…ゥゥ…
　　　ガ…ァ———…


銃声。
張りつめた何かが弾けるようなその音は、静寂の森の木々をぬって鳴り響いた。
あちこちで鳥の飛び立つ羽音を背後に、少女は雪に取られた足を強引に引き抜き抜いた。

転んだ。
もがく様に身体をばたつかせ、転がるように立ち上がると、背後を振り返ることも無く走り出した。

「この…　馬鹿者…っ！！！」

頭上からシピリカの憤慨した声が降ってくる。
その声には、珍しく焦燥の色が混じる。

「撃ってすぐに逃げる奴があるか！　追ってくるぞ！」

返事をする余裕などは無く、少女はひたすらに走った。
肩にかけた荷が重く、途中何度も転んだ。
荷を捨てろ、とシピリカが叫ぶ。

「だって———…」

冷静になれば、捨てるべきだと彼女にも判断できただろう。
しかし、そんな余裕は彼女には無かった。
喉が冷気で焼けるように痛い。脇腹が悲鳴をあげる。





揺れる視界が一層大きく揺れた。
肩から提げる荷にその牙をたてられ、引かれ大きく仰け反った。

荷が外れると、視界が何度も回る。

「チセ！！！」

鈍い音がした。
頭に衝撃が走ると同時に身体が軽くなった気がした。
頭に響く鳥の鳴き声は高く、澄んだもので、混濁する意識の中で少女は美しいと思った。

影が近づく。
それは3つあっただろうか。
木の幹を背に、少女はただ呻く事しかできなかった。
銃は、まだ手の中にある。
けれど、動けと命令しても指は動かなかった。



死ぬのだろうか、と少女は思う。
近しい人々の姿が瞼に浮かぶ。
姉妹は、今頃戦場にいるのだろうか。
祖父の友人は、自分の手紙を読んで自分を待っているのだろうか。
祖父は、今の自分の姿を空から見ているのだろうか。



「い—…、や…」

孫が狼に喰われる姿を見るのは、さぞつらかろう。
死んではいけない、そう思った。

「ぃや…、　ぁ、い…、いやあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ————っ」

少女は銃口を影へと向けた。
しかし、少女の握る銃は、リロードされていないままだ。










視野が陰った。
あれは、鳥だろうか———

チセから革の袋を掌に受け取ると、大切そうに指を閉じた。

お守りを懐にしまい、そっとチセの頬に指を添え、撫でた。

銃を握る手は小さく震えている

少女は大きく息をついた

少女はソワソワしている。