城門をくぐった先は多くの人で溢れていた。ただただ広大な敷地に繁華街もかくやというほどの人がひしめいている。彼らの発する声がひっきりなしに飛び交っていて、亞人たるアリスの有能な両耳も大切な主を探す手助けにはなってくれそうになかった。彼女にできることは、ただただ人の海をかき分けて、得られるだけの情報を集めようとすることだけだった。
　決して楽なことではなく、また効果的な行動でもない。それでもそうせざるを得ない。何人ほどに主人たるイリスの足取りを尋ねただろうか、視界にある姿がおおよそ見覚えのあるものになった頃、アリスは足を止めて小さく息を吐いた。これといった情報は得られず、途方に暮れて人の流れを眺める。焦燥感に伴って、胸の内にある空白が重く圧し掛かってくる。
　人の流れがあった。人の集まり、散発的な集合はそれこそ星座の数ほどあるのだが、どうやらそういった双方向から寄り合うような性質はなさそうだった。長い金髪を腰まで伸ばした細身の人物が、誰にともなしに焼き菓子を配っているようだ。さほど遠くない場所で続いている、この様相の中で不自然といえば不自然なその光景を、アリスはなんとはなしに見つめる。あまりに視線を注ぎすぎたのだろう、やがてアリスの視線とその人物の視線とが交錯した。誰何するような目で見られ、このまま眺めているだけというのも失礼だろうと、その傍に歩いていくことにする。間近で見ると見上げるほどだった。頭ひとつ分の身長差は優にあるだろう。

「クッキー。食べるか？」

　そう言って袋の中身を取り出してみせる。先ほどまで同様、配っていた焼き菓子。いえ、と言いかけたところで、クッキーの芳しい匂いが鼻腔をくすぐった。それまで存在を忘れていた食欲が一度に身体を支配する。思い返せば、この世界に来てから口にしたのは水くらいのものだ。食事すら怠ってしまうだなんて、どうやら相当に参ってしまっていたらしい。

「おひとつ、いただけますか？」





　人の流れの傍らに座り、菓子をつまみながら話をする。話とはいっても、ほとんど相手に喋ってもらう形ではあったが。中性的なその人物は、どうやら男性であるらしかった。名はレオン・カイ。ネクターがなくなれば世界から菓子も失われるかもしれないという話を聞き、ネクターを取り戻すために叛乱に加わるのだという。
　聞くに、この世界は”ネクター”なるものに大きく依存しているらしい。”エンブリオ”という生命体にネクターを捧げて契約を交わし、その力を借りることで様々なことを成してきたという。蒸気の生む白煙もなしにこの世界の端々に豊かさや文明の片鱗が見えるのは、つまりはそういうことなのだろう。あの蒸気の国より不自由ではあるが、あるいはよほど健康的と言えるかもしれない。

「それで、お前はなんで一揆に参加するんだ？」
「人捜しを」
「人捜し？」
「ええ。この世界に飛ばされた際にはぐれたご主人様を」

　怪訝そうな顔をされる。ここまで急いでいたせいですっかり忘れていたが、あの蒸気の国でアリスの姿を見た人の多くはこういった反応をしたものだった。亞人種への待遇は冷たいもので、しばしばイリスが憤慨することもあったくらいだ。

「ってことは、違う世界から呼ばれてきたのか。ご主人様って、召使いかなんかか？　王族ってどんな奴なんだ？」

　どうやら、表情の原因は違うところにあるようだった。この世界はそもそも主従というものに縁が薄いようだ。自分がイリスとどういった関係にあるのかをかいつまんで説明し、そういった仕組みがあるということを強調しておく。王族とはおおむね縁がないことも。

「はー……なるほどなあ。要するに、大事な人を捜してるってことだな」

　どこまで聞いていたのかわからないような口ぶりだが、重要な部分は伝わっていたようだ。ありがたい限りだと、アリスは胸中で安堵する。

「ご主人様は腕の立つお方です。寝食に窮することのないようこの叛乱に加わっていることは、十分に考えられますので」
「ネクターがなきゃ、この世界は衰退していくばかりだからな。よそ者に気を使ってられるほどの余裕はないだろうな」

　菓子がなくなるかもしれないくらいだからな、と言うその表情は真剣そのものだった。じっと見つめていると、もう一つ食べるかとクッキーを差し出される。遠慮することなく頂戴し、焼いた小麦粉の香るそれを小さく割って口に放り込んだ。しつこすぎない甘さが口に広がる。文句のつけようのない美味だった。

「であれば、私もご一緒願えませんか？　この世界のことを知る人がいてくれると心強くあります」
「へ？　まあ、いいけど。それよりいいのか、こんな見ず知らずの男を捕まえて。変な奴じゃないとも限らないぞ」
「誰を捕まえても同じことですから。それよりかは、美味しいクッキーを焼ける人のほうが、幾らかは信用に足るというものです」
「言うね。それじゃ、よろしく頼むよ」

　指についたクッキーの欠片を払い落とし、握手を交わす。細い体つきではあるが、握った手の硬さは確かな男性のそれだった。



「まずはどうする？　他に応援でも頼もうか」
「そうですね。もう少しレオン様のクッキーを頂きましょう」

　ひたすらに水色の深い空の下、さくり、と焼き菓子を指で割る音が響いた。

クッキー入りの小袋を一つ開け、皆に薦めてみる。

無言で相手を睨み付ける。

手中に爪を隠し、何事もなかったかのように手指を払う。

片手でスカートの裾をつまみ、恭しく一礼。