ビブリオバベル=ベリアルオリバーは、“流星眼”の持ち主である。
彼女の母——リューゼリゼ=ベリアルオリバーはハーフ・ドラゴニュートであり、父——リソジーノムス=ベリアルオリバーはといえば生粋の人間であるからして、その二人の間に生まれた彼女は必然的にクォーター・ドラゴニュートである。しかし、一般的ファンタジーストーリーで期待されるような、炎や氷のブレスを吐いたり、身体の一部の竜化する能力には、生憎彼女は恵まれなかった。彼女が母親から遺伝的に受け継いでいる特殊体質はといえば、まさにその左碧眼であり、竜青眼、俗に“流星眼”と呼ばれる魔眼がそれである。
流星眼は特筆すべき能力を持っている。魔力帯を視覚できる能力だ。彼女の左眼には、魔力は「とらえどころのないモヤのようなもの」「立ち上る陽炎のようなもの」として視覚される。そのモヤの色や量は魔力の性質により変化するもので、彼女の左眼を通して視る世界は、通常の人間の視覚認識よりも鮮やかな彩りを伴っている。ただし右の朱眼はそのような特殊能力を持たない普通の眼であり、左眼を瞑って視る世界は通常の人間と同様だ。左右の眼で視覚に少なからず差がある以上、彼女は生まれながらにして視力が悪くならざるを得ない体質で、今は特殊なレンズをはめた眼鏡をかけることで魔力帯の視覚を敢えて抑え、視力の低下を防いでいる。
さて。そんな両眼を持つビブリオバベルが降り立ったメルンテーゼは、眼鏡を外した左眼で直接視認すると、世界全体が薄い紅霧に覆われているように視えた。この紅霧ははじめ、この世界以外では見られない独自の植物である“ネクター”に由来するものなのかと思っていたが、数日経ってどうやらそれは違うらしいということに気がついた。この紅霧が一際濃く見えるのは人が多く集まっている村や町のなかであってネクターの有無とは必ずしも結びつかないし、何より、ネクターの秘める独特の魔力は、流星眼には綺麗な翠色で視認されるのだ。
メルンテーゼのとある安宿の一室で、ベッドに腰掛けながらそう語る彼女の前。部屋の真ん中で鬱蒼と茂っている月桂樹・ローラス=ノビリスは、髭のように顔に生えた葉っぱを撫でながら、諭すように穏やかな声音で彼女に語りかける。
ローラスは、アカデミエの【研究区】——デスクに思いを馳せる。あそこにはありとあらゆる研究者が集っており、休憩するためのエリアで他の研究者と雑談をしているだけでも楽しい場所だ。最も、極めて専門的な研究内容の話を理解しようとする努力があって、はじめてあの場所が楽しい場所となるのだが。
そう、ローラス=ノビリスは学問の世界アカデミエに在住する魔鉱物学者だ。彼は今年、齢53になる年季の入った歩行月桂樹だが、生まれつきの険しい顔つきと裏腹に性格は実に穏やかで争いを好まない。今は、メルンテーゼに植生をもつ不思議な植物“ネクター”の研究のためにこの地に訪れている。
ローラスの困ったふうな喋り口を聞き、ビブリオバベルは不思議そうに小首を傾げた。
申し訳無さそうな声を上げるローラス。
対照的に、ビブリオバベルは笑顔で手をぷらぷらと振った。
そう言って彼女はベッドから立ち上がり、ローラスの方を向き右手拳を力強く握りしめ、言い放った。
メルンテーゼの人々の生活は、ネクターと、それを使用したエンブリオとの契約のうえに依存している部分が大きい。大半を新王に独占されて、わずかしか残っていないネクターを見ず知らずの外界の研究者なんかに譲ってくれることは考えにくいだろう。
今メルンテーゼのそこかしこでは、現地民であるなしにかかわらず一揆に加勢する人材を募集している。プロパガンダ的に、戦いへの貢献度に応じて、より多くのネクターを分けるという触れ込みだ。
また、メルンテーゼの主たる鉱山の大半は現在、全て新王の管理下にあり、勝手な立ち入りや採掘が禁じられている。それはローラスのみならずビブリオバベルの研究にとっても障害となる。
そう熱弁するビブリオバベルを前に、険しい顔つきを一層険しくしてローラスは諭す。
仮に一揆が成功し、新王が打倒されたとして、それでこの世界に平和が訪れるかといえば、多いに疑問が残る。
独占されていたネクターの分配権は誰にあるのか?どの地域にも「平等に」分配できる方法とは?その方法で分配したときに不平不満があがったら、果たしてどうするのか?
革命で勝ち取った権力とは、自分達がやったことを理解しているのだから、権力を勝ち取った後は決まって一つの方向性へとひた走る。逆に革命されることを恐れ、反抗勢力を根絶やしにしようとするのだ。
そこに待っているのは、新王時代よりもより過酷な、粛清と粛清の世界。
内戦に外界が関わると碌な事がない。
皆、結局は自分事ではないのだからやることなすこと無責任にも程がある。後が無い現地民とは違い、結局、自分の身が危険になったら逃げてしまえばいいのだから。
仮にそんな気持ちではなかったとしても、現地民からのそのような罵倒からは常にさらされることとなるだろう。その人達のために善意でしていることを、その人達から否定される。それに耐えうるだけの精神があるのか。
淡々と語るローラスに対し、ビブリオバベルは怯まずに反論する。
ビブリオバベルは、ローラスに詰め寄る。
だが、仮にもしそれができなくなったら。
家族にも等しいエンブリオとの契約をするための、ネクターが手に入らなくなってしまったら。
メルンテーゼの人々は、果たしてどうやって生きればよいのだろう?
一頻り喋り尽くしたビブリオバベルを前に、
教樹は深く、長い溜息をついた。
僕は、戦わないよ。
争いが何かを生み出すことが仮にあったとしても、
その代償に喪うものが多すぎることも、僕はよく知っているんだ。
教樹は悲しそうな顔でそう呟いて、それ以降は黙ってしまったのだった。