1.
遠く、城が見える。
山脈を思わせる巨大なその城は古く、背後に抱える雲形は呆れるほどに広大だ。景色に溶け込んでいる見たこともない植生。これまで一度として聞いたことがない何かの鳴き声。吹く風は強く、何千年も置き去りにされた廃墟から流れてきたような、ホコリっぽい空気が鼻をくすぐる。
見る者が見ればそれは古代のお城で、中には危険な罠がいっぱいで、モンスターもいて、悪い奴もいる。奥には隠された財宝があるに決まっていて、地下室には隠された真実が眠っていて、城のどこを歩いても大冒険が待っているのだ。間違いない。
もちろん嘘である。
城から微かな人声が聞こえてくる。それはどこか落ち着かない、祭りがはじまる前日のような雰囲気があった。
そして、そんな繁華な気配に誘われるよう、城に近づいている物体が一軒。
空飛ぶ家である。
——いや、今度は嘘ではない。
浮遊するその家を目撃した者が真っ先に目にするのは、屋根にかけられた見事なたれ幕だ。当たり前のように空を飛ぶ住居に、高所故の強風に煽られる幕はあまりにも場違いすぎて、見ているだけで一日中笑っていられる。
幕には遠目から見てもわかるほど大きな字で、こう書かれている。
『家族募集中 タンポポ荘』
一般的な一軒家よりも少し大きいその家は、ぱっと見はごく普通だが、よく見れば形容しがたい有機的な箇所がところどころに見える。空を飛んでいる時点でわかりきったことではあるが、やはり普通の家ではないらしい。
こうなってくると、中に住む人間はさぞヤバイ奴に違いない。誰もがそう思った。
もしかしたら、人ですらないかもしれない。
*
まさしくその通り。
空飛ぶ家には人ではなく神様が住んでいて、神様はカフェバーを経営していた。
神様がカフェバーを経営。
わけがわからない。
そしてポポロ・ダンドリオンは、テーブル席について力の限りだらけきっていた。ときおり「うー」だとか「あー」だとか唸り声をあげていて、全身を使って退屈を表現するその様は、むしろ楽しんでいるんじゃないかとすら思えてくる。テーブルに突っ伏し、潰れた頬はとても柔らかそうで、ちょっと触ってみたい。
そしてピアンタ・ディペントーラは、カウンターの内側で静かに佇んでいた。どうやら食事中のようで、干し芋を機械的な動きで食べている。その表情は彫刻のように動かず、何の感情も見せない視線をポポロに送っている。ぶらぶらと揺り動くポポロの足の動きが、だんだんと激しくなっていくのを見てピアは内心で思う。そろそろ限界だな——。乾燥しきった芋をボリボリと食べながらそんなことを真面目に考える姿は、ちょっとバカっぽい。
ピアは小さくため息をついて、
と、そこでポポロは何か思いついたのか、潰れていた顔をあげて勢いよくピアの方へと振り向く。片側の頬だけが赤くなっている。
元は人間だったピアには必要だが、神様であるポポロは食物を摂取する必要がない。数えるのも馬鹿らしくなるぐらい共に過ごしてきた二人だが、一緒に食事をしたことは一度としてないのだ。
それ故か、ピアがポポロの前で食べるという行為をすること自体が、珍しかったりする。
その物珍しさに退屈が加わって、ポポロは猫が鼠を追うような足取りでカウンターに近づいてきた。
へえーふうーん、と声をあげて干し芋を珍しそうに眺めるポポロ。
ふうん、とポポロは曖昧な納得をして、次なる好奇の対象を探そうと身体が動き出そうとしていたが、最後に干し芋を一瞥したところで「とても大事なことを思い出した」という顔をして、
実はビックリして一歩あとずさってしまったピアだが、どうやらポポロは気づいていないらしい。カウンター越しでよかった。
そのとき、ピアが表に出した表情はなんとも言えないものだった。例えるなら、ものすごく苦いものを口にしてしまったが、それを決して表に出すまいとしているような、そんな顔。無表情になりきれない無表情。
100パーセント断言してもいいが、ポポロの言葉に根拠はない。
返事がおざなりなのは、いい加減めんどくさくなってきたからだ。それに、正直そんな都合よく集まるとはピアは思っていない。
ポポロの元気いっぱいなかけ声に、ピアはため息で返す。
まったく、はじまる前からこれだ。
一揆とやらがはじまったら、一体どんなことが待ち受けているのだろう。
*
食堂の準備し終えて少し経った後、ポポロがそんなことを言い出した。
窓のないリチェッタの中で何故そんなことがわかるのか——などという疑問はいまさらだろう。
この発言からもわかることだが、ピアは外のたれ幕には気づいていない。知らぬが仏というやつである。
なにやらポポロが独りでに騒いでいる。椅子に座りながら足を投げ出すその姿は、端から見るとちょっと危ない子である。
そして唐突に、翡翠のように光る両の眼を見開いて、勢いよくピアへと振り向き、
ポポロはピアの言葉を待たない。立ち上がり、ぴょんぴょん跳びはねばたばた両手を振り回しながら、
見事な翻訳である。さすがは長年のつれと言えよう。
ピアは思う。好意的に解釈してみよう。自分はカフェバーのマスターなんてものをやらされるハメになり、おそらくこれから大勢の人と——人でないものに、不本意ながら関わることになるだろう。そして正直に言えば、ポポロ以外の誰かとうまくしゃべれる自信はない。ならいっそ、今のうちにパーティとやらを組み、少数を相手に他者と交流することに慣れておくべきなのかもしれない。
うん、そんな気がしてきた。
そう思わないとやってられなかった。
ポポロはピアの袖を引っ張り、早く行こうと急かす。どこにいても何をしていても明るく活動的なポポロだが、メルンテーゼにきてからは一段と元気だ。それにつられてか、ピアもいつもより少しだけ口数が多い。
——いや、もしかしたらそれは、逆なのかもしれない。
途中、ポポロの歩みが突然ぴたりと止まった。
そう言ってポポロは振り返って、少し強引に、手で持つには少し大きい何かをピアに手渡した。
何かと思う間もなくそれは動いた。
ナマモノだった。
あまりのことに絶句するピア。背筋を伸ばしたまま固まるその姿は、いたずらっ子に虫を投げ渡された女の子みたいだ。
逸らしたくても逸らせない視線。ナマモノはよく見ると羽根が生えていて、童話なんかで見るものによく似ていた。
いつの間にか、ポポロの肩に帽子をかぶった小人がいた。ピアに向けて手を上げている。意思のようなものはあるらしい。
見るからに害のなさそうなその容姿を見て、ピアの肩の力が抜けていく。
ポポロの言葉を聞きながら、ピアが人差し指でフェアリーの頭に触れると、フェアリーはくすぐったそうに目を細める。
そのとき、ピアの眉が一瞬だけ、ぴくりと動いた。
フェアリーを猫みたいに威嚇するポポロ。対するフェアリーの反応も鼠のそれであり、今にも逃げ出しそうなほど怯えている。
リチェッタのドアが閉まる。
神様の家が地上に降り立つ。
空想から飛び出たような巨大な城は確かにそこにあり、祭りはそこからはじまろうとしていた。
遠く、どこからか一揆、という単語が聞こえてきた。
一揆とは心を同じくした者たちが共同体となり、一致団結することである。
風が吹いて木立が揺れる。どこか予感めいた葉音は騒がしく、遥かな高みから降り注ぐ日射しが木々の合間を縫って地上を照らし、『家族募集中』と書かれた幕が一際大きく波打った。
そして、タンポポ荘のドアが開く。
今日は、どんな日になるだろうか。