老人は一人暮らしであった。
職業を問われれば、農家であると答える。
朝起きて、裏の畑に水を撒き、玄関口に届けられた毎朝に牧場から配達される牛乳を抱え、回覧板を確認する。
毎朝のルーチンワークを黙々とこなしていた老人が、この時になって顔をしかめた。
回覧板には、暴虐を尽くす王を打倒する為の人員募集と、今年の祭りの規模が縮小されるという内容が書かれている。
募集要項の内容には、壮健な男児だとか、武道経験がどうとかという項目が書かれていた。
老人の肉体は年齢に反して頑強ではあるが、それも、老人にしてはという枕詞がついてしまう。
無理に一揆に参加して、若いモンに迷惑をかけることだけはできなかった。
老人はため息をついた。
家の戸を開けて中に入り、荷物を居間に置くと、そのまま部屋の奥まで進み、押入れに手をかけた。
ここ数日、老人は祭りに向けて内職をしており、その成果である張子の人形が押入れの中に保管されている。
未だ上半身しか完成していない状態ではあるが、そのサイズは既に老人より二周りは大きく、
老人はそう、ほくそ笑んでいるのだ。老後の生きがい、ここに極まれりである。
そのままウキウキ気分で気味の悪い笑みを浮かべながら老人が押入れを開き、
絶叫した。
老人が祭りにあわせて作っていた張子の人形が、奇怪な形に変形しているのだ。
竹ひごで組んだ骨組みに、白い紙を張り合わせただけの構造のはずのものが、赤銅色の、鈍い光沢を放っている。顔に相当する部位も角ばった構造をしており、とても老人が作るようなラインではない。腕の数にいたっては倍になっている。正しいものといえば老人を二周り上回るサイズと、下半身がないことくらいだろうか。
しかも、しゃべるらしい。
アブジーニャと名乗った神が、押入れの中に何かを見つけた。狭い押入れの中で背中の腕を器用に使い、押入れの置くから3冊の書物を取り出した。
神が書物を開いた。
それは重税を取り立てられ続ける暮らしがつまらぬと、家を飛び出していった息子が愛読していた書物である。
老人は困惑した。
その書物の表紙には『特攻番長』という文字が躍っている。
内容は一時期に流行したヤンキー漫画というやつで、人相が悪く立ち振る舞いも粗暴だが、心根は優しい主人公と周囲の人物が繰り広げる人情物とでもいえばいいのだろうか。
あまりに王道過ぎたせいか、陳腐といえば陳腐な内容で、全三巻で打ち切りになった代物だ。
老人は神の読書を咎めようとした。この書物、老人の中では、
孫を悪しき道に進めた外法の書として認識されているのである。老人としては、信じているわけではないが、仮にも神を名乗るものに捧げてよい書物などではない。
しかしその頃には、神が四本の腕を総動員して尋常ではない速度で一冊目を読破していた。
神の速読術にももちろんであるが、何よりその言葉に老人は愕然とした。
実を言うと老人は、この書を読んだことがなかったのだ。
坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、家を捨てた息子の愛読書など、読む必要もないと考えていた。
かといって捨ててしまえば孫との縁が全て切れてしまうような気がして、押入れの奥に放置していたのである。
老人は自分の心の弱さを暴露されたような気がして、即座に神から書物を取り上げようとしたが、
神は老人が葛藤している間にも二冊目をめくりめくり、ジジイが二言目を挟むまもなく全三巻を読破してしまった。
老人は入れ歯をこぼしそうになった。
神は書を置くと、老人に向き直り、前傾姿勢になり、顔だけを上げて至近距離で老人にメンチを切りながら問うた。
老人は不整脈を起こした。
神はスムーズな浮遊で室内を一巡すると、深めの皿と牧場主から届けられた牛乳を手にとって老人の前に戻り、牛乳を皿に注いで老人に差し出した。
老人は神の奇行に頭をひねったが、とにかく願い事を言わなければ、次は更なる奇行が待っているらしきことは想像ができた。
老人は観念すると、願い事を考え始めた。
何でもという割には複雑な規定があるらしかった。
老人がどこかからヒントを得ようと辺りを見回すと、ちょうど窓の外の景色に、丘の上の城が映った。
神が戸をあけて家を出た。なんでもないお使いに行くような振る舞いである。
老人はしばらくの間放心したように座り込んでいたが、やがて大きく深呼吸した。
老人が立ち上がり、戸の鍵を閉めようと戸に手をかけて、
戸が外から開かれた。神はそのまま顔だけを室内に突っ込むと、
そう言って、再度、スムーズな浮遊で去っていった。
残された老人はもう考えるのをやめて、とにもかくにも荒れた室内を片付けようとして、
手に取った書物を、何とはなしに開いていた。