【‐序‐　参戦前・小ノ木家にて】（Eno.1639さんの日記の、別視点日記です）


弔問の客足も途絶え、雑事の手伝いもひと段落ついた頃。
今はもう主を失くした部屋に、新たに点された線香から白く細い煙が立ち昇る。
月明りに差す影の様にひそりと佇む男は、仏前で静かに手を合わせた。
据えられたばかりの写真には、生前の好々爺が穏やかに微笑んでいる。

（——気の好い御仁であった）

伏せた目蓋の裏で、初めて会った時の事を思い出す。
突然現れた素性も分からぬ異界の人間を、彼はただ「大変でしたなあ」と労わり、
年輪を重ねた微笑を浮かべながら、委細問わぬまま迎え入れてくれた。
何も知らずに飛ばされた自分にこの世界の事情を教え、住む場所と職までも与えてくれた。

だがその数々の恩義も、こうして返せぬままとなってしまった。

（——かたじけない。不義理なこの身、どうか許されよ）

瞑目し、心中窺い知れぬ表情はそのままに。
“巳南”とこの世界で名乗る忍は、恩人へ胸の内でそう詫びた。

＊

部屋を出、庭に面した廊下へ歩を進める。
——と、庭の方から人の気配を感じた。
そして耳に届く、微かな声。
それが故人の孫——小ノ木家の長男・龍貴のものである事は、すぐに知れた。
喉からこぼれる、押し殺した嗚咽の声。
気配を絶って近付けば、そこには庭の大木にすがり肩を震わす小さな背。

仲の良い、祖父と孫だった。

小ノ木家に滞在してきた半年程の間にも、その絆の深さは窺い知れた。
周囲には男子らしからぬ弱さと受け取られがちな龍貴の感受性や繊細さも、
老人はあの柔和な笑みで全て受け入れ、慈しみ、可愛がっていた。
そして龍貴も、そんな祖父を誰より敬愛していた様だった。

（……）

越えられるだろうか。
いや、生きてゆくならば越えねばならぬ事——されど。

今は、ただ。

忍はひとり咽ぶ少年の背を、ただ静かに見守っていた。