レナーテ(385)からのメッセージ:
マリア「仮にそれを続けて勝ったとしても、終戦後はぼろぼろの状態でしょうね……。 その後の立て直しまで考えると、気が遠くなりそうです>ウーシェさん」
マリア「さて、今回は小石川養生所についての話をしましょう。 江戸時代、この養生所ができるまで現在の病院にあたるものはありませんでした。 診療は往診(内科・小児科)と通院(外科・口中科・鍼灸科など)のみで、入院はできなかったのです。 また、経済的な問題から、診療を受けられる人はごく限られていました」
マリア「医者にかかれない人は売薬を買う訳ですが、それも決して安くはありませんでした。 庶民は大病に罹るとかなりの確率で家計破綻、一家離散の憂き目に。 売薬すら買えない人は民間薬や祈祷に頼りましたが、効果があったかと言うと……」
マリア「そんな状況を見かねた町医者『小川笙船』は享保7年(1722)正月、貧窮者向けの医療施設を設置するよう目安箱に意見書を投じました。 それを受け、幕府は小石川薬園内に施療院を開設する事を検討。 同年7月には具体案が決まり、12月26日には小石川養生所開設を知らせる町触が発令されました」
マリア「当初の収容者は『看病人のない』『病苦に苦しむ貧窮者』のみに限定されていましたが、享保8年2月からは看病人についての条件は撤廃され、享保10年からは無宿・非人を除いた行倒人や寺社奉行支配地の者も収容しました。 収容定員は最初は40人でしたが、収容対象の拡大に伴い享保8年には100人、同14年には150人に。 ただ、同18年には少し減らして117人とし、以後幕末まで変わりませんでした」
マリア「また、当初は投薬を受けるだけの通い病人も受け入れていたのですが……。 対象を拡大した事で利用者が急増し、享保8年8月19日には314人にも達しました。 ただでさえ逗留人57人、入所待ち98人と言う状況で医師不足が深刻であったため、同日をもって通い病人の制は廃止されています」
マリア「開設から天明7年(1787)あたりまでは常に定員近くか定員以上の逗留人がいました。 ですが、その後は徐々に減少し天保(1830-1843)末から安政(1854-1859)末には以前の半数以下に。 時代が進み貧窮病人はどんどん減少していたのでした、めでたしめでたし――と言う訳ではありません」
マリア「実はその頃、逗留人の全快率が低下し死亡率が跳ね上がっていたのです。 原因は医師の怠慢と下役人の不正。まあ、ありがちな話ですよね……。 そうなると、入所忌避の動きがみられるようになるのも当然です。 また、入所に際しては名主から印鑑を貰う必要があったのですが、名主が手続きを怠る事も多かったようです」
マリア「……さて、長くなりましたので続きはまた次回。 別の話をするかもしれませんけどね」
ウーシェ(1514)からの通信回線をオープン:
ウーシェ「そろそろ残り回数が限定されそうだ。 私も本格的に語る内容を纏める必要がありそうだね」
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